それから

ちょいと読んでかない?

ミュージシャンにお腹の鳴りやすい人はいないのか

夜、湯船に浸かりながら、「カウントダウンTVをご覧の皆さんこんばんは、◯◯です」って何回か練習したことあるくらいには阿呆な私であるが。

そんなことをしてしまうくらいミュージシャンという職業に憧れを持っているということでもあり。それゆえか最近、こんな要らない心配をしている。

その心配とは、少し前、部屋の片付けをしている時に沸き起こった。
押入れに押し込んだ荷物の山から、何か捨てられる物はないかと探していた時のこと。私は沢山の古いカセットテープを発見した。上京する際、姉に編集して貰ったUKロック、USロック、Jポップ……。チクショウ懐かしいぜ、この野郎、と追憶の海に溺れていたところ、他のテープとは明らかに異質な存在感を漂わせる一本のテープを見つけた。
「◯◯(私の本名)ピアノコレクション」。
高校生の私が、自作曲を録音したテープである。

懐かしさのあまり、早速発掘したテープを、10年もののケンウッドのラジカセに突っ込んで再生する。ブツッ……という不穏な音を発しつつも、音は途切れたり間伸びしたりすることなくちゃんと再生された。そしてそのピアノ曲が、なかなかどうして悪くない。世の理を知らぬがゆえの、型にはまらないメロディラインである。なぜこんなメロディを思いついたのか、感心すらしてしまう。まあ、ラストを大げさにもたらせて感動を呼ぼうとする感じがいささか笑えるが。

そんなわけで、私はこれをどこかにちゃんと保存しておかねばと考えた。そしてその方法として、iPhoneをラジカセのスピーカーにかざし、再生される音をボイスメモの中に録音するという原始的方法を採用。とりあえずメロディ記録出来りゃいいし。

そしてレコーディング本番である。いざ、ボイスメモの録音ボタンをタップ、すかさずラジカセのスピーカーにiPhoneを近づけ、テープを再生。順調に録音される名曲たち。

だが、三曲目のラスト近くで、それは起こった。
もう曲が終わる。感動の最終小節。高校生の私がわざとテンポを遅くして涙を誘おうをしているその瞬間、28歳の私のお腹が、凄まじい音量で、
「グー?」
と鳴った。しかも疑問系であった。
しまった、お腹の音も録音されたか。いや、たかがスマホのマイクでそこまでは拾わないか?
私は恐る恐る、録音された曲を再生してみた。

「グー?」
それはしっかりとピアノの調べと共に記録されていた。

この出来事で改めて思い知らされたが、私は腹が良く鳴る体質である。それも、空腹時のみならず、満腹時にも、そのどちらでもない平常時にも時と場所に関係なく腹が鳴りやすい。消化音なのか、ガス音なのか(多分どっちとも)、とにかく自分ではコントロール出来ないレベルで腹が鳴る時がある。しかも一回ではなく何回も。小さくはない音で。これは非常に由々しき問題である。体験したことのない人にはわからないかもしれないが、私は良くこの体質のせいで地獄をみる。例えば、密閉された静かな会議室グー。キーボードを叩く音しかしないオフィスグー。映画館で無音に近いシリアスなシーンが流れている時グー。極め付けは、好きな人と二人きりの時間グー。
恥ずかしすぎるのである。これを地獄と言わずとして何と言う。
そして私は心底ほっとする。プロのミュージシャンや芸能人じゃなくて良かった、と。

ミュージシャンや芸能人の中には、腹が鳴りやすい人はいないのだろうか。皆腸内環境が良いのだろうか。オーディションの募集資格に「あまり腹が鳴らない人」とは書かれていない。まさか「今日は腹鳴りが止まらないんでレコーディング(とか撮影)延期させてください」なんて言えるまい。
ネット等で調べてみたところ、私のような症状を持つ人は一定数存在していて、皆さんどうにかこうにか付き合いながら生きているようである。非凡な才能を持っている人の中にもそういう人が居たとておかしくない。そういう人は、どうやってその場を凌いでいるのだろうか? その辺の腹鳴り事情を誰か教えてはくれまいか。

そうなのだ、カウントダウンTVに出る以前に、おちおちレコーディングも出来ないのでは、とても困る。
などと、CDデビューの予定もないくせに、要らぬ心配をしている今日この頃なのである。

OKAMOTO’Sの番組「オカモトーーーク!」が面白い

人間には大きく分けて二種類の人間が存在する。
それは、「自分の好きなものについて他人に説明するのが好きな人間」と、「そうではない人間」だ。
こんなブログをちまちまと書いて日本語のみと言えど全世界に大公開している私は、間違いなく前者なんだろう。
自分の好きなものについて、なぜそれが好きなのか、ぴったりとくる言葉で他人に説明するのは難しい。だけどどうしても誰かに言いたくて、その衝動と自分の言語能力との間でうろうろして、いつもなんだか上手く説明出来なくて、でもそれが不思議と嫌じゃない。幸せだ。

最近、またそういうものに出会ったから、久しぶりにポチポチとキーボードを叩いているわけです。

それは「オカモトーーーク!」=ロックバンド「OKAMOTO’S」によるYouTube限定トーク番組である。
家に帰ったらまずテレビをつける! な私でしたが、最近はテレビを点けず、PCを開いて「オカモトーーーク!」を流します。
はっきり言って、もう何回もリピートしているので、次に誰が何を言うかわかっている。でも見る。聞く。というかこれを書いている今も画面はブログ記事作成画面だが、別タブで「オカモトーーーク!」を開いているので声だけがBGMのように流れている。なぜかそれがとても心地良い。なんでだ? メンバーの誰かの声に「1/fゆらぎ」が存在しているのか? いわゆる美声の人はいない気がするんだが(失礼)

そもそも初めてこの番組を見た時、私はOKAMOTO’Sのファンではなかった。「そんなバンドいたな〜」程度の認識で、曲もまともに聴いたことがなかった。そんな私がどういうきっかけか忘れたがYouTubeでこの番組を発見し、何回もリピートするようになった理由が今でもよくわからない。そして正直に言うと、何が面白いのかもよくわからない。

以下、「オカモトーーーク!」の好きな点を箇条書き。

  • 男子寮を覗いているみたいなワクワク感(自分は女なので絶対入れない)
  • たまに出てくるメンバー以外の固有名詞(ファン歴浅い私には誰だかわからん。説明ない時あるし)になぜかイライラしない(むしろそれ誰!? と調べまくる)=絶妙な疎外感?
  • ショウさんから滲み出るフロントマン気質と優しさ。
  • キーコーちゃんの慣れないMCの心地よさ。というかいるだけで癒される。
  • スーパーバランサーハマくん(とにかく素晴らしいトーク力だが稀に噛んだり怒ったりするのが可愛い)
  • 時々自由すぎてわけのわからないことを言うレイジさんを無視するメンバーと無視されたことをまったく気にしてなさそうなレイジさん。

まとめると、「楽しそう! ずっと見ていたい!」
……やはり番組としての面白さを説明出来ていない。よくわからない。ただ確固としてあるのは、私はこの空気感を心底愛している、ということだけだ。

話は少しズレるが、今まで彼らの音楽をまともに聴いたことがなかった私がこの番組を発見し、ハマり、さらに彼らの音楽を聴くようになった事実を振り返ると、彼らの戦略は成功したと言えるだろう。ミュージシャンなんだから、音楽だけやっていればいい、という意見もあろうが、OKAMOTO’Sというバンドにそれは当てはまらないように思う。トークを窓口として音楽へ辿り着くルートがあってもいい、そう思わせてくれるだけの力を彼らは持っているのだ。私にとってそれはとても幸運なことだった。彼らの音楽を聴くたびにそう思う。

さきほど番組の感想を「楽しそう! ずっと見ていたい!」と雑な言葉でまとめたけれど、そういえば彼らの音楽にも同じ感想が言えると気づいた。
「楽しんで作ったんだろうな」と。「なんか楽しそうだから、ずっと聴いていたい」と。

楽しいって、いいよね。
また雑にまとめてしまったけれど、私がOKAMOTO’Sを好きな理由って、そーゆーことです。

※ちなみに私の好きな回は、キーコーちゃん初MC回の「OKAMOTO'S 「祝・キーコーちゃんMC記念!オカモトーーーク!Vol.3~SPRING~」」です。「ハッピー・バースデー・パーティー・“トゥアー”」で爆笑。

Let It V

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Dance With Me/Dance With You

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曇天の旅

職場の人から、結婚の報告を受けた。夫婦になる二人は、共に自分と同じ部署の人で、実におめでたいと思った。自分でも驚くほど嬉しくて、興奮してしまって、同じく同僚の後輩(20代男)にこんなLINEを送った。
「某さんと某さん結婚するんだってね! お似合いだよね!」と。
後輩は「お似合いですね」と同意した後、こんな一言を返してきた。
「あんまり気にしちゃだめですよ」

一拍おいて、意味を理解した。
「(自分はまだ結婚してないってことを)あんまり気にしちゃだめですよ」という意味だと。
後輩とは普段から冗談を交わし合う仲であるから、それが悪意を含んでいないことはわかっている。私が本気で怒らずに、「うるさいよ(笑)」と返してくることを彼もわかっている。彼を嫌いになることは、ない。

だけど多分、私は怒ったんだ。それが証拠に、こうして午前四時にブログを書き殴っている。
怒った? 何に? 後輩の無遠慮な一言に? 違う。私はきっと、自分自身に怒っている。
誰からも愛されない自分に。

まだ若かった頃、10代後半から20代前半の頃、失恋した時や人から傷つけられた時に、私は良く母に泣き言を言った。
「私は誰からも愛されない人間なんだ」
そうすると母は決まって、優しい声でこう慰める。
「私たち家族がいるじゃない。私たちが愛しているじゃない」
親の対応として、この台詞は全く正しい。何も間違っていない。でもその正しさは私を余計に悲しくさせた。
家族は家族だから。自分を愛してくれるのは当たり前だと思ってしまう。大人になった今では、それはとても幸福なことなのだと少しは理解できるようになった。しかしそれでも、私はこう思ってしまう。
たった一人でも、血の繋がらない人間が私が愛してくれたなら、私を覆うこの薄闇は消えてなくなるのに、と。

もしかしたら、自分は恋愛というものに向いていないのかもしれない、と気づいた時からずっと、私は曇天の下を歩いている。曇天の下、人一人いない中途半端に舗装された一本道を、延々と歩いている。せめてこの道が時々変化してくれさえすれば、心救われるのに。たとえば、新緑の中で鳥の声が飛び交う獣道。雨のカーテンを車のクラクションが切り裂く国道。そんな道に時折入り込んでしまうくらいが丁度いい。生きている実感がある。けれど、そんな気配はない。道はどこまでも真っ直ぐで、空は薄暗く、足裏には靴底に小石が入り込んでいるかすかな不快感。そして誰もいない。かつてこの道を誰かが通った形跡はあるのに、あたりには誰もいない。自分しかいない。そんな道を、ずっと一人で歩いている。もしかしたら自分はこの先もずっと、(家族以外の)誰からも愛されないのかもしない、という不安は、私にそんな気分を味わわせている。

後輩から冒頭の一言を言われた時、私は怒るべきだったのかもしれない。その言葉そのものに。けれども長い長い曇天の旅は、私にそれを忘れさせてしまった。周りからそういった種類の冗談を言われるたびに、いつしか悪いのは私なのだろうと思うようになった。どうしたらこの道から逃れられるのか、そもそも自分は逃れたいと思っているのか、今はもうわからない。多分こういう人は私の他にもたくさんいて、周囲の「悪意のない圧力」に耐えながら、曇り空の下を孤独に歩き続けているんだろう。私にはそのことがわかる。ただ、感覚として、わかる。そういう孤独を少しだけでいいから理解してくれと思うのは、そんなにわがままなことなんだろうか。

「うるさいよ(笑)」
と、後輩に返事を返したあと、私はこの文章を綴っている。
もうすぐ、夜が明ける。朝がくる。たとえ空が、曇天だとしても。