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「クズの本懐」は何が「クズ」なのか

あらすじ(Amazonより引用)
私たちは、人間のクズだ――。
品行方正な美男美女カップルとして、周囲から羨望の眼差しを浴びている花火と麦。理想的な男女交際に見える二人は、誰にも言えない“ある秘密"を共有していた。

※第1巻〜第4巻を読んだ所感です。
この漫画、タイトルに「クズ」とあるということは、主人公の行いが「クズ」であるという前提のもと物語が進んでいるのだろう。その割には、作中に主人公カップル(花火と麦)を「クズ」だと罵る第三者は存在しない。そして、当のカップルも、偽装的に付き合っている相手のことを罵るわけではない。彼らは、大体において相手ではなく自分自身を「クズ」として心の中で罵り、嫌悪する。とても内向きの嫌悪。そんな印象が強い。

そう遠くない昔のこと、私には好きな人がいた。その人は、私より四つ歳上で、部屋の壁には何だかよくわからない綺麗な小瓶が飾ってあり、可愛らしい鳥のオブジェが観葉植物の陰からちょこんと覗いていて、「音楽をかけよう」と言って流れてくるのはボサノヴァ風のジブリ。顔は少し崩れたディーン・フジオカみたいな人だった。今思えばなんかそのお洒落なところが妙な可笑しみを持っているのがわかるのだが、当時の私は本気でそれをお洒落と思っていたし、それは恋のなせる業に他ならない。
とにかく、私はフジオカさん(仮名)が好きだった。
フジオカさんとは、私が彼の一人暮らしの家に行くことで交流が行われていた。逆に言えば、フジオカさんと私の繋がりはそれだけで、食事をしたり、デートをしたりということは一切なかった。その時点で、女性として大切にされていないことに気づけば良いものの、気づかないふりをし続けるのも、恋のなせる業に他ならない。
ちなみに、何回か家に行ったものの、性行為にはまだ至っていなかった。それは、もう別に生娘でもあるまいに、私の中に妙に操を重視する性質があって、「正式にお付き合いをするまでは最後までしては駄目ざます」という規則が存在していたからである。
だが、何度会ってもフジオカさんは私に告白してくる様子はなかった。ゆえに、私は自分からフジオカさんに訊いてみることにした。私は小さい頃から何事も自分で答えを見つけないと気が済まないタチなのだ。何で虹は七色なの。何で空は青いの。何で宇宙は暗いの。何でフジオカさんは部屋に私を入れてキスして添い寝するのに告白してこないの。なんでなんでなんで?

「私のこと好きなんですか? 私はフジオカさんのこと好きですよ」
「別に、好きじゃない」
「じゃあ何なんですか」
「好きとか嫌いとか、そういう0か100かみたいなのは、怖い。好きじゃないけど、一緒に部屋にいるとそーいう気分になってしまうから、辛い。だから、彼女とかじゃなくて、なんか、こう、寂しい時に、お互いの寂しさを埋めるような関係だったら、良いけど」

理解できません。多分、相対性理論よりも理解出来ないと思います。私はフジオカさんのダッチワイフになる気はありません。今ならそうバシッとベシッとフジオカさんに言える自信があるけれど、その時の私はそんなことは言えず、じゃあ無理ですね、とかなんとか言って自宅へ帰った気がする。好きだったから。少し顔の崩れたディーン・フジオカが。良くわからないカタカナの調味料とかあったけど。やたらクッションの置いてあるソファとかあったけど。

クズの本懐」を読んで思ったのは、これはフジオカさんの、「寂しい時に、お互いの寂しさを埋めるような関係=端的に言えばセフレ」にならないか、という提案を、受け入れられる人の話なんだなあ、ということだ。先に書いた通り、私はその提案にのれる人間ではない。自分のことを好きでもない人間とでも良いから寂しさや欲求を解消したいという考えに共感が出来ない。相手がディーン・フジオカだろうと西島秀俊だろうとジョージ・クルーニーだろうと、私はその様な価値観にNOを突きつける人間なのだ。だから私にとっては、フジオカさんは「クズ」として認定された。多少の心の痛みは味わったものの、今振り返ってみればやはり私は間違っていなかったと胸を張れる。

一方で、「クズの本懐」における偽装カップルは、お互いの性的欲求を、一番好きな人で晴らすことが出来ないゆえに、手近にいる同じ境遇の者でそれを満たそうとする。お互いが、納得の上で、である。果たしてそれは、「クズ」か? 一方が苦しい想いをしているならまだしも、お互いが対等な関係であるならば、相手は自分にとって「クズ」になることはない。ここまて来て、ああだから、この漫画のカップル(特にヒロインの花火)は、自分のことをいちばん「クズ」だと思うんだ。それが内向きの嫌悪の原因だ。と思い至った。花火の中には、「好きでもない相手と性的な行為をすること」に対する嫌悪が存在しており、だからこそそれをしてしまっている自分自身が最も「クズ」だと感じているのだ。花火のモノローグのシーンで、もう一人の花火が登場し花火自身を糾弾するカットがそれを良く表している。

そう思ってこの漫画を見てみれば、主人公カップルには好感すら覚える。欲望に抗えずに苦しむところは、かなり普遍的で人間臭い。
本当に怖いのは、自分が相手より優位な立場でいることを知りながら、自分の欲求だけを満たす行為である。フジオカさんがしようとしていたのはそういうことで、この漫画の3巻以降である人物がとっている行為も同じくである。現状、まだ私は4巻までしか読んでいない時点でこれを書いているので、この後このカップルが人を傷つける行為をしていくとしたら、悲しいなあ(すでにえっちゃんが壊れてきてるし)。

私はその行為にNOと言える人間でありたい。それは自分の尊厳を守ることだから。相手を「クズ」にしないためにもね、自分を「クズ」にしないためにもね。それから、年齢とは関係なく、そういう自分の気持ちと乖離した性行為は、自分の心を磨り減らすのを知っているから。崩れたディーン・フジオカごときに大切な心の一部を差し出す必要はない(ディーン・フジオカさんに罪はない)。ようやく三十年ほど生きて、そういうことに気づきましたよ。

クズの本懐」、良い漫画です。

脆弱な未来

「デート(のようなもの)に誘われたんですけど、いざ誘われるとおしゃれとかするのがめんどくさいです。でも行った方が良いとは思うんですよ。なので背中を押してください」
と、とある男性にLINEを送ったら、
「なんかちょっと複雑です」
と言われた。

「『複雑』ってどういう意味ですか?」って訊こうと思えば訊けるけれど、訊かなかった。未来がひとつ、そっと闇の中に吸い込まれて消えていくのを感じた。もしも私が質問をしたら、私たちふたりの未来は何か変わっただろうか?
例えば、「ちょっと、君のことが気になってる」と答えが来て、自分も相手が気になり始めて、果てはお付き合いして結婚なんかしちゃって、子供など産まれちゃう未来も、あったりするのだろうか? だとしたら、そんな未来があるとしたら、今私が質問しなかったことによって、未来がひとつ消えたのだ。未来とは、実に脆弱なものである。ひとつひとつの小さな選択が、1人の人間が産まれるか産まれないかまでを左右する(かもしれない)。

私の父は、二十歳の時、勤め先の他部署にいた女性を内線電話で呼び出し、「僕とデートしませんか?」と誘ったという。女性とは私の母である。母はそれに応じ、デートを経てお付き合いが始まり、結婚。翌年には姉、その数年後には私がこの世に生を受ける。あの時、もし父が電話のボタンを押さなかったら? 母が電話に出なかったら? 出たとしても何らかの理由でデートを断っていたら? しかも、付き合ってからも両親はとある理由で音信不通の期間が二年ほどあったらしい。連絡を絶ったのは父の方で、母はそのあいだ、ずっと父からの連絡を待ち続けていた。そしてある時ふと、何事もなかったかのように父が電話をしてきて、またふたりの物語が動き出した。もしそのあいだ、母が別の人と結婚していたら? もし父が再び連絡をしようと思わなかったら? 姉も私もこの世にいない。私たちの命は随分と綱渡りじゃないか。

よく歴史にifはないと言うし、その通りだと思うが、人と人との関係にはとてもたくさんのifが溢れている。あの時こうしなければこの人とは出逢えなかった。そんな風に、ifをポジティブに捉えて日々に感謝するのは、そんなに悪いことじゃない。それと同じくらい、あの時こうしていたら(もしくはしなかったら)良かったってネガティブなifに捉われるのも、また人間というものなのだが。

なんか最近同じような話を読んだなあと思ったら、平野啓一郎の「マチネの終わりに」だった。あれはまさに、そういうifの話で、ifを乗り越えたふたりの話だったんだ。

マチネの終わりに

マチネの終わりに

「『複雑』って、どういう意味ですか?」
今度訊いてみようか。未来はまだ私の心の中で、ふるふると揺れている。

生き残りしもの

半年に一度くらいのペースで、断捨離ブームが訪れる。
とにかく捨てる。なんでも捨てる。1K=キッチン2畳、居間兼寝室6畳の狭いこの我が城に詰め込まれた服、小物、本などの内、もうこの城の王たる私に見限られたものたちをどんどん粛清していく。この大量消費社会に迎合どころか進んで参加した末路である。情けない。しかしまた、B'zの「LOVE PHANTOM」のサビを口ずさみながら部屋の床に何もない部分を増やしていく作業は、形容できない快感をもたらす。
ものの中には思い入れのあるものも存在する。特に本を愛する身としては、一度は本屋から連れ帰ってきて、小さな本棚にその場所を与えた一冊の本を、カタカナの「ブ」から始まる古本屋へ売り飛ばすのは忍びない。それでも我が城は非常に手狭ゆえ、いくらでも本たちを迎え入れるわけにはいかないのだ。だから小さな本棚に並べられた本たちは一定数を保っている。その中には、新顔も居れば、もう何年もそこに居続けている者もいる。後者は、断捨離の度に危機を乗り越え勝ち残ってきたツワモノである。私の心に残りしものたち。今回は、そんな生き残りしものたちをここに書き残す。

先生の白い嘘(1) (モーニングコミックス)

先生の白い嘘(1) (モーニングコミックス)

漫画。先生と生徒の恋愛ものと言ってしまえば陳腐に聞こえるが、とにかくテーマが重い。性の扱い方が生々しい。それが良い。続きが気になるから置いている本。
ブラッドハーレーの馬車

ブラッドハーレーの馬車

どこかで、読んだあと最高に鬱になる漫画として紹介されていたので買った。確かに残酷な話だったが、自分的にはその残酷さよりも、世界観の構築の仕方や、話の構成力とかの方が物を書く上の参考になった。いくえみ綾は昔から好きな作家でほとんどの作品を読んだ。とりあえず今連載中のこの作品を手元に残している。登場人物誰ひとり好きになれないという珍しい漫画。テーマは不倫。主人公の女が嫌いすぎてもはや怖い物見たさで続刊を心待ちにしている。
進撃の巨人(1) (週刊少年マガジンコミックス)

進撃の巨人(1) (週刊少年マガジンコミックス)

もはや説明不要。絵が下手でも漫画は売れる! 小さい頃から頭の中で荒唐無稽な物語を空想していた自分にとっては、まるで同じことをしていた仲間が漫画を描いて大ヒットさせた、という気持ちになる妙な作品。
君は永遠にそいつらより若い (ちくま文庫)

君は永遠にそいつらより若い (ちくま文庫)

なぜかいつまでも手放せない小説。理由が良くわからないけど、なんとなく自分に似ているような気がする奴。だからそばにいるのかも。
センセイの鞄 (文春文庫)

センセイの鞄 (文春文庫)

実際には文庫版ではなくハードカバー版を所有している。思えば高校生の時に購入して十年以上! 上京、上京してからの引越し、また幾多の断捨離もくぐり抜け手元に残り続けている本。今でも時々開いてそこに書かれた一文だけを読んだりする。川上弘美の文章は時に対する耐久性がすごい。
風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

村上春樹作品はすべてを手元に残しているが、いちばん再読の回数が多いのはこれ。デビュー作で発表は1979年。私の生まれる前である。文学って、もっと自由でいいんだと今読んでも思える傑作。ノーベル賞獲れなくてもいいさ。夏目漱石の文章を読むと、なんて丁寧な文章なんだろうとうっとりする。上手い文章じゃなくて、丁寧な文章。実際に所有しているのは新潮文庫の限定Special版。表紙が真っ白で何も描かれておらず、題字と著者名が金色で刻まれている。「こころ」にいちばん似合うデザインだと思う。
わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

海外からの生き残り。その限りない丁寧さが、漱石の文章と少し似ている気がする。静かな感動を与えてくれる一冊。
朗読者 (新潮文庫)

朗読者 (新潮文庫)

ストーリーが凄く好き。単純な愛情ではなく、「愛情のような名前のつけられないもの」がここに綴られている。名もなき感情。そういうものを文学に昇華できることに感銘を受けた。
キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

大人になった今、ホールデンくんの気持ちがわかるようになった。小説には若い時に必ず一回、大人になってから必ず一回読まなければいけない種類の小説があって、これは間違いなくそういう作品。もっともっと大人になった時、どう感じるようになるのか。それが楽しみだから本棚に置いてある。

実際には他にも何冊か置いてあるのだが、今回は何度も断捨離に耐えてきた本を書き残してみた。彼らは私の人生にずっと必要な存在だった。そうには違いないのだが、だからと言ってすべて何度も読み返したかといえば、そうでもない。それは人間関係にも少し似ていて、何十年も連絡を取り合う友人が、毎日一緒にいた相手かというとそうでもない。一方で、ある時期毎日のように連れ立って遊んでいた人間が、ある日を境にぱったりと合わなくなったというケースもある。あんなに仲が良かったのに。この関係が一生続くかと思ったのに。あれは何だったのだろう。まるで一瞬の花火のような、そんな関係。儚く消えてしまう関係。
人にも本にも、ある時が来たらそこから旅立たなければならない関係が存在している。別れは来るべくして来るものだし、間違いではない。人生にとって必要なものでもある。そして残ったもの、今関係を密にしているものも、いずれは私の元から去っていくかもしれないし、去っていかないかもしれない。
何も確かなものは存在しないのだなあ、と改めて知る。諸行無常平家物語にも書いてあるし。
来年の今頃、私の本棚はどうなっているのだろう。そしてその時、そばには今はまだ見ぬ人がいたりするのだろうか。
この本たちは、とても愛しく儚い、私の今である。