それから

ちょいと読んでかない?

脆弱な未来

「デート(のようなもの)に誘われたんですけど、いざ誘われるとおしゃれとかするのがめんどくさいです。でも行った方が良いとは思うんですよ。なので背中を押してください」
と、とある男性にLINEを送ったら、
「なんかちょっと複雑です」
と言われた。

「『複雑』ってどういう意味ですか?」って訊こうと思えば訊けるけれど、訊かなかった。未来がひとつ、そっと闇の中に吸い込まれて消えていくのを感じた。もしも私が質問をしたら、私たちふたりの未来は何か変わっただろうか?
例えば、「ちょっと、君のことが気になってる」と答えが来て、自分も相手が気になり始めて、果てはお付き合いして結婚なんかしちゃって、子供など産まれちゃう未来も、あったりするのだろうか? だとしたら、そんな未来があるとしたら、今私が質問しなかったことによって、未来がひとつ消えたのだ。未来とは、実に脆弱なものである。ひとつひとつの小さな選択が、1人の人間が産まれるか産まれないかまでを左右する(かもしれない)。

私の父は、二十歳の時、勤め先の他部署にいた女性を内線電話で呼び出し、「僕とデートしませんか?」と誘ったという。女性とは私の母である。母はそれに応じ、デートを経てお付き合いが始まり、結婚。翌年には姉、その数年後には私がこの世に生を受ける。あの時、もし父が電話のボタンを押さなかったら? 母が電話に出なかったら? 出たとしても何らかの理由でデートを断っていたら? しかも、付き合ってからも両親はとある理由で音信不通の期間が二年ほどあったらしい。連絡を絶ったのは父の方で、母はそのあいだ、ずっと父からの連絡を待ち続けていた。そしてある時ふと、何事もなかったかのように父が電話をしてきて、またふたりの物語が動き出した。もしそのあいだ、母が別の人と結婚していたら? もし父が再び連絡をしようと思わなかったら? 姉も私もこの世にいない。私たちの命は随分と綱渡りじゃないか。

よく歴史にifはないと言うし、その通りだと思うが、人と人との関係にはとてもたくさんのifが溢れている。あの時こうしなければこの人とは出逢えなかった。そんな風に、ifをポジティブに捉えて日々に感謝するのは、そんなに悪いことじゃない。それと同じくらい、あの時こうしていたら(もしくはしなかったら)良かったってネガティブなifに捉われるのも、また人間というものなのだが。

なんか最近同じような話を読んだなあと思ったら、平野啓一郎の「マチネの終わりに」だった。あれはまさに、そういうifの話で、ifを乗り越えたふたりの話だったんだ。

マチネの終わりに

マチネの終わりに

「『複雑』って、どういう意味ですか?」
今度訊いてみようか。未来はまだ私の心の中で、ふるふると揺れている。

生き残りしもの

半年に一度くらいのペースで、断捨離ブームが訪れる。
とにかく捨てる。なんでも捨てる。1K=キッチン2畳、居間兼寝室6畳の狭いこの我が城に詰め込まれた服、小物、本などの内、もうこの城の王たる私に見限られたものたちをどんどん粛清していく。この大量消費社会に迎合どころか進んで参加した末路である。情けない。しかしまた、B'zの「LOVE PHANTOM」のサビを口ずさみながら部屋の床に何もない部分を増やしていく作業は、形容できない快感をもたらす。
ものの中には思い入れのあるものも存在する。特に本を愛する身としては、一度は本屋から連れ帰ってきて、小さな本棚にその場所を与えた一冊の本を、カタカナの「ブ」から始まる古本屋へ売り飛ばすのは忍びない。それでも我が城は非常に手狭ゆえ、いくらでも本たちを迎え入れるわけにはいかないのだ。だから小さな本棚に並べられた本たちは一定数を保っている。その中には、新顔も居れば、もう何年もそこに居続けている者もいる。後者は、断捨離の度に危機を乗り越え勝ち残ってきたツワモノである。私の心に残りしものたち。今回は、そんな生き残りしものたちをここに書き残す。

先生の白い嘘(1) (モーニングコミックス)

先生の白い嘘(1) (モーニングコミックス)

漫画。先生と生徒の恋愛ものと言ってしまえば陳腐に聞こえるが、とにかくテーマが重い。性の扱い方が生々しい。それが良い。続きが気になるから置いている本。
ブラッドハーレーの馬車

ブラッドハーレーの馬車

どこかで、読んだあと最高に鬱になる漫画として紹介されていたので買った。確かに残酷な話だったが、自分的にはその残酷さよりも、世界観の構築の仕方や、話の構成力とかの方が物を書く上の参考になった。いくえみ綾は昔から好きな作家でほとんどの作品を読んだ。とりあえず今連載中のこの作品を手元に残している。登場人物誰ひとり好きになれないという珍しい漫画。テーマは不倫。主人公の女が嫌いすぎてもはや怖い物見たさで続刊を心待ちにしている。
進撃の巨人(1) (週刊少年マガジンコミックス)

進撃の巨人(1) (週刊少年マガジンコミックス)

もはや説明不要。絵が下手でも漫画は売れる! 小さい頃から頭の中で荒唐無稽な物語を空想していた自分にとっては、まるで同じことをしていた仲間が漫画を描いて大ヒットさせた、という気持ちになる妙な作品。
君は永遠にそいつらより若い (ちくま文庫)

君は永遠にそいつらより若い (ちくま文庫)

なぜかいつまでも手放せない小説。理由が良くわからないけど、なんとなく自分に似ているような気がする奴。だからそばにいるのかも。
センセイの鞄 (文春文庫)

センセイの鞄 (文春文庫)

実際には文庫版ではなくハードカバー版を所有している。思えば高校生の時に購入して十年以上! 上京、上京してからの引越し、また幾多の断捨離もくぐり抜け手元に残り続けている本。今でも時々開いてそこに書かれた一文だけを読んだりする。川上弘美の文章は時に対する耐久性がすごい。
風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

村上春樹作品はすべてを手元に残しているが、いちばん再読の回数が多いのはこれ。デビュー作で発表は1979年。私の生まれる前である。文学って、もっと自由でいいんだと今読んでも思える傑作。ノーベル賞獲れなくてもいいさ。夏目漱石の文章を読むと、なんて丁寧な文章なんだろうとうっとりする。上手い文章じゃなくて、丁寧な文章。実際に所有しているのは新潮文庫の限定Special版。表紙が真っ白で何も描かれておらず、題字と著者名が金色で刻まれている。「こころ」にいちばん似合うデザインだと思う。
わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

海外からの生き残り。その限りない丁寧さが、漱石の文章と少し似ている気がする。静かな感動を与えてくれる一冊。
朗読者 (新潮文庫)

朗読者 (新潮文庫)

ストーリーが凄く好き。単純な愛情ではなく、「愛情のような名前のつけられないもの」がここに綴られている。名もなき感情。そういうものを文学に昇華できることに感銘を受けた。
キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

大人になった今、ホールデンくんの気持ちがわかるようになった。小説には若い時に必ず一回、大人になってから必ず一回読まなければいけない種類の小説があって、これは間違いなくそういう作品。もっともっと大人になった時、どう感じるようになるのか。それが楽しみだから本棚に置いてある。

実際には他にも何冊か置いてあるのだが、今回は何度も断捨離に耐えてきた本を書き残してみた。彼らは私の人生にずっと必要な存在だった。そうには違いないのだが、だからと言ってすべて何度も読み返したかといえば、そうでもない。それは人間関係にも少し似ていて、何十年も連絡を取り合う友人が、毎日一緒にいた相手かというとそうでもない。一方で、ある時期毎日のように連れ立って遊んでいた人間が、ある日を境にぱったりと合わなくなったというケースもある。あんなに仲が良かったのに。この関係が一生続くかと思ったのに。あれは何だったのだろう。まるで一瞬の花火のような、そんな関係。儚く消えてしまう関係。
人にも本にも、ある時が来たらそこから旅立たなければならない関係が存在している。別れは来るべくして来るものだし、間違いではない。人生にとって必要なものでもある。そして残ったもの、今関係を密にしているものも、いずれは私の元から去っていくかもしれないし、去っていかないかもしれない。
何も確かなものは存在しないのだなあ、と改めて知る。諸行無常平家物語にも書いてあるし。
来年の今頃、私の本棚はどうなっているのだろう。そしてその時、そばには今はまだ見ぬ人がいたりするのだろうか。
この本たちは、とても愛しく儚い、私の今である。

ビートルズなんて知らない

昨年姉が結婚いたしまして。で、早くも今月姪っ子が誕生する予定です。めでたい。とてもめでたい。
で、まあ、それ自体には何の問題もないのですが、ふと思ったことがありまして。
それは、姪っ子は、ビートルズを知ることになるだろうか? ということ。
というのも、私は人生において定期的に想いを馳せる案件がひとつありまして。
それは、「この世にビートルズを知らない人はいるのだろうか?」ということです。
いや、居るのだと思う。確実に。絶対に。物心つく前の子供とか。テレビのない原始的な生活を送っている民族とか。欧米の文化が届かない地域の人々とか。
けれどとりあえず私が日本で普通に生活してきた中で、「ビートルズって何ですか?」というレベルの人に出会ったことがないように思う。曲名は知らない、またはメンバーの名前は知らない、ということはあっても、「The Beatles」というバンドの存在をまったく知らないということは、ない。たとえ日常的に洋楽、ひいては商業音楽を聴かない人でさえも。その存在自体は知っている。
その知名度たるや他のバンドまたはアーティストと比べるのもちゃんちゃらおかしいくらいズバ抜けている。日本国内で対抗出来る存在といえばSMAPサザンオールスターズくらいか。日本限定だが。
ビートルズの活動期間が1962年から1970年。もう解散してから約46年(!)が経とうとしているのに、凄いことである(それをいっちゃあベートベンとかモーツァルトはどうなるんだという感じもするが、なんかビートルズとはジャンルが違うと思うので無視する)。
だが、これからは「ビートルズなんて知らない」という人々の割合が増えていくのであろうか。「ビートルズ? なにそれ美味しいの?」な世代が台頭してくるのだろうか? 想像出来ない。イマジン出来ない。でもきっといつかそういう世界が訪れるのだろう。

もしパラレルワールドというものがどこかに存在しているとして。その中にビートルズの存在しない世界があったとしたら。私は心底、今のこの世界に生まれてよかったと思う。だってビートルズがいるから。
人生で一番好きなバンドというわけではないし、来る日も来る日も狂ったように彼らの曲を聴いたことは、ない。でも、どこか自分を奮い立たせたい月曜日の朝に聴くのはHelp!だったし、水曜日の倦怠感の中で流れるのはA Day In The Lifeで、ふと寂しくなった金曜日の夜に求めるのはHey Judeだった。彼らはいつも私の心の中にいて、常に穏やかに魔法をかけてくれるのだ。音楽という名の魔法を。

姪っ子はいつビートルズを知るのだろう。そしてビートルズのいるこの世界を美しいと思ってくれるだろうか。
思ってくれると、嬉しい。