それから

ちょいと読んでかない?

絶対に死にたいと歌わないバンドーー映画「オアシス:スーパーソニック」

オアシス:スーパーソニック(字幕版)

オアシス:スーパーソニック(字幕版)

  • 発売日: 2017/03/22
  • メディア: Prime Video

あらすじ(「ぴあ映画生活」より引用)
1991年に結成され、わずか数年後にロック界の頂点へと上り詰めたオアシス。ギャラガー兄弟への新たなインタビュー、他のバンドメンバーや関係者の証言、名曲の数々に彩られたライブ映像などの豊富なフッテージにより、伝説的なバンドの真実を今に伝える。

「オアシス:スーパーソニック」最高だった。なぜか終始涙が出そうになった。なぜか物凄い勇気を貰った。もっと自分は自由に生きて良いんだって思えた。なぜかはわからないけど。 #オアシススーパーソニック #oasissupersonic

レディオヘッドもコールドプレイも好きなんだけど、希望をくれる、生きる勇気をくれるのはいつもオアシスだった。

彼らは絶対に死にたいとか歌わないから。クソみたいな環境で親父に殴られ生活保護受けてても死にたいとか歌わなかったから。

Twitterでほとんど言いたいことは言ってしまっているのだけれど。12/25@恵比寿ガーデンシネマ「オアシス:スーパーソニック」観てきた。恵比寿という大人のオシャンティなデートスポットのためか、それとも12月25日という日付のためか、座席には空席が目立った。開場前、映画館の窓から通りを歩く数多のカップルが見え、「ファッ×ン、早く家に帰ってセッ×スでもして私の老後の年金払う子供を生産しやがれクソ野郎」と頭の中で暴言を吐いていたけれど、鑑賞後はそんなことどうでも良くなるくらい端的に言ってクソ素晴らしい映画だった。

このブログでも何回か書いたけれど、私にとってオアシスとは本当に特別なバンドだ。しかしリアルタイムでその熱狂を体験したわけではない。私は何かに熱狂するという行為においてリアルタイムかどうかは重要ではないと思っていて、しかも音楽というジャンルはあらゆるエンターテインメントの中でもリアルタイム性を凌駕する性質が強い。だからこそ、私はオアシスに熱狂する。そしてリアムはビートルズに熱狂する。熱狂の連鎖。リアルタイムをブチ壊せ。
なんだけど、この映画を見たら、リアルタイムで90年代のこのオアシスの熱狂を目撃・体感した人が少し羨ましくなる。「リアム超イケメン!」って言ってるティーンエイジャーらしき女の子に、自分もなりたいよって思う。それほど、この映画は時代を駆け抜けている再現力が高かったのだろう。人々がオアシスという労働者階級のスターに心惹かれていく様子が手に取るようにわかった。

基本的に、ギャラガー兄弟っていうのは、「良い人」じゃない。映画でも語られる通り、いくつもの施設を出禁になっているし、ドラッグをやりまくっているし、他人への悪口も凄まじい。自信を持って彼らについて「良い」と言えるのは、彼らの音楽がアホみたいに素晴らしいってことだけなのだ。
私の敬愛する番組「久保みねヒャダこじらせナイト」で漫画家の久保ミツロウさんがこんなことを言っていたのを思い出す。
「ものすごい悪人には、それを超えるほどの『帳消し力』がある。この人悪い人だけど、この人のためなら何かやってあげようと思わせてしまう何かを持っている」
ギャラガー兄弟ってまさにコレじゃないか。世間的に優等生とは言えなくても、そんなこと関係ないんじゃないかと思えてしまうマジック。数々の悪事を赦してしまうほどの音楽の素晴らしさ。それこそがオアシスの本質で、多くの人間を魅了するパワーの源なのだ。

しかし彼らは、ただ単に自分の魅力を振りまいているだけじゃない。彼らについてもう一つ断言できること。それは、彼らが絶対に「死にたい」と歌わないバンドだってことだ。
名曲「Live Forever」が象徴するように、彼らは基本的にみっともなくても上手くいかない人生でも、生きることを否定しない。ポップソングがこの世で鳴り響き始めて以降、「死にたい」(またはそれに似た感情)を歌ったバンドは数知れず。それはそれで聴く者に寄り添う薬の役目を果たしてはいる。けれど、オアシスはその道を選ばない。かつてリアムが子供を残して自殺したカート・コバーンを否定したように、自ら死を選ぶことを良しとしない。永遠に生きるんだ。クソみたいにつまらないこの世界でも。そしてそばに、素晴らしい音楽があれば良い。その姿勢のなんと潔く、なんと眩しいことか。私たちがオアシスを求めるのは、その強く揺るぎない煌めきの中に自分もいたいと思うからだ。生きることを肯定する煌めきの中に。

と、雑にまとめるとオアシス最高! ちゅうことなんですが、他に良かったところをつらつらと(完全前情報なしで見たい人は飛ばしてね)
ドキュメンタリー映画ゆえ、関連人物のインタビューが中心になっているんだけど、誰が喋っているか最後まで逐一テロップが出るところが良かった。あれ、今誰が語ってる? どの辺の話をしてる? というストレスがほぼなくて、それってドキュメンタリーにおいては凄く重要だと思う。それから、映画で語るべき部分をある期間に絞った点も良い。あとCGが可愛い。トニーが不憫(知ってた)。
印象的だった言葉は、「自分たちは、インターネットが生まれる前の世界の最後のムーヴメントだった」(大体こんな感じ。)byノエル。かなり冷静に自分たちを捉えているのが意外だったのと、確かにもうこんな風に世界中の多くの人が同じひとつのものに熱狂する現象はないんだろうな、と感じた。それは少し、切ない。インターネットの登場以降、より個人の好きなものが細分化されたこの世界が今後どのようになるのか。オアシスの体現した生きることを肯定する煌めきは誰が、何が担うのか。興味がある。

長くなってきて、そろそろ彼らに「話が長いんだよクソ野郎」と言われそうな分量になってきたので、ここらで終わろう。
このクソみたいにひどい世界で生きるやつら、今すぐ映画館に急げ! どうしようもなくアホで、どうしようもなく最高な奴らと音楽がそこで待ってる。

cocolukas1225.hatenablog.com
cocolukas1225.hatenablog.com

映画「ヒトラーの忘れもの」を見て、長崎で育った私が感じたこと

ヒトラーの忘れもの(字幕版)

ヒトラーの忘れもの(字幕版)

  • 発売日: 2017/06/06
  • メディア: Prime Video

概要(「ぴあ映画生活」より引用)
デンマークアカデミー賞にあたるロバート賞で作品賞など6部門を制した歴史ドラマ。第2次大戦後に捕虜になったナチス少年兵たちがたどる凄惨な運命を描く。なおも引きずられた民族間の軋轢や、人命に対する軽々しい扱いといった戦争の傷跡を、詩情に満ちた映像の中に浮かび上がらせる。東京国際映画祭では『地雷と少年兵』のタイトルで上映。

私は結構戦争映画を見ている方で、それも、映画好きでたくさん映画を見ていたらほとんどの戦争映画を見ていた、というパターンではなく、意識して、率先して、戦争映画を見ている。誰かから「どんな映画が好きなの?」と訊かれた際は、「戦争映画」と答える。ふと映画を見ようと思い立った時は、とりあえずジャンル:戦争映画の中から作品を選ぶ。ちなみに、ジャンル:ラブストーリーは滅多に物色しない。

これは不思議な矛盾になるのだけれど、私は戦争については絶対的に反対だ。それは、私が被爆地・長崎県の出身であることも少なからず影響している。長崎県で育った人間は、子どもの頃から他県の子どもよりも平和教育を受ける機会が多い。毎年8月9日は夏休み中にも関わらず学校へ登校し、体育館で延々と被爆者の写真を見たり、体験を聞いたり、原爆は許せない、平和は尊い、というような歌を合唱する。「夏休みの友」(今もあるのかな?)には必ず原爆関連の課題があり、道徳の教科書にも被爆体験が登場する。小学生時の課外授業で長崎の原爆資料館に行き、中学校の修学旅行で広島の原爆ドームに訪れる。そのようにして、原爆とは悲惨なもの、という感情を子どもに教え込んでいく。

とても言い方は悪いけれど、「教える」というよりは、「刷り込む」とか「植え付ける」という教育の仕方だと思う。でも、私としてはそれは正解だと感じている。なぜなら、平和の尊さを児童に理解してもらうには、まずそれを壊す存在(=原爆)がどれほど惨いものなのかをショックを覚悟の上で見せつけるのが近道だからだ。いくら言葉で「戦争は駄目」「平和を大切に」などと連呼したところで、戦争を知らない世代にとっては、実感には成り得ない。それなら、「戦争をした結果、どれほど悲惨なことになるか」というのを見せた方が、「こんな酷い思いは絶対にしたくない。だから今ある平和を大切にしなきゃ」という思想に導きやすいと思う。

実際、私も先に書いたような平和教育を受けて、戦争というものに強い恐怖を感じていた時期があった。小学生の頃、夕方ひとりで留守番をしていると、家の上空を旅客機が飛んでいく。その音を聞いて、飛行機が今にも爆弾を落としていくんじゃないかと想像し、鼓動が異常に速くなって冷や汗が額を流れる。日本はもう戦争なんかしていないから、そんなこと絶対にあるわけないのに。そんな時期が、高校生になるくらいまで続いた。明らかに、平和教育のトラウマである。けれど、それがあったからこそ、大人になった今、絶対に戦争をしてはならないという想いが私の中に強く根づいている。その意味で、あの教育は間違っていなかったのだろうと思うのだ。

矛盾と言ったのは、そんな風に戦争への絶対的な反対意識を持っていながら、フィクションとしての「戦争映画」を好ましく思っているところだ。他に言い換える言葉がほんとうにないのだけれど、私は「戦争映画」が「好き」なのだ。「好き」としか言いようのない思いで、好んでそういう映画を見ているのだ。極限状態での人間の心理だとか、人と人との交流だとか、戦争映画で得られるそういった表現に心惹かれる。これは一体何なのだろうと常々思っていて、ずっと不思議と戸惑いの中で戦争映画に触れてきた。そして今回、「ヒトラーの忘れもの」と出会って、少しだけその理由がわかった。

この映画の一番の見どころは、地雷撤去のために連れてこられた元敵国ドイツの少年兵たちを統率する、軍曹の心の動きである。このデンマーク人の軍曹、冒頭からドイツ兵に対する憎しみをこれでもかと発揮する。彼にとってはドイツ人であることだけで憎しみの対象足り得るのである。この冒頭が、後からかなり効いてくる。
当然、地雷撤去の少年たちもドイツ人で、軍曹の憎悪の対象になる。しかし、彼らと接し、彼らの中に自分と同じ人間の心を見た軍曹は、徐々に彼らと心を通わせていく。ここらへんの心理のグラデーションの見せ方が実に見事で、かなり惹き込まれた。あれほど嫌っていたドイツ人と笑い合うまでになる軍曹。だがある事件が起こり、彼はまた少年兵たちへの態度を硬化させる。この軍曹は、作品中で何度も何度も被害者意識と加害者意識の中を行ったり来たりするのである。これほどまでに揺れ動く心を見せつけられた映画は他にない。だが、ふともっと俯瞰した視点で思い返してみれば、この軍曹の行ったり来たり(もしくは矛盾が同居している状態)は、個人単位だけでなく、国家単位でもあることなのだ。日本は敗戦国ではあるけれど、ある国や地域からみれば加害者たる存在なのだろう。戦争という行為は、そういう立場の複雑化を生んでしまう。好むと好まざるとに関わらず。加害者であり、被害者。被害者であり、加害者。そしてそれが軋轢を生み、新たな諍いを生んでいく。

もしかしたら、と思う。もしかしたら、私が「戦争映画」を「好き」と言って、好んで鑑賞していたのは、自分は敗戦国・日本、そして被爆地・長崎の出身で「絶対的な被害者である」という認識があったからかもしれない。自分が絶対的な被害者である内は、心の呵責を感じずに済む。もちろん、実際に戦争の被害者になったとしたら、そんな心の余裕はないだろうし、加害者を憎むことだろう。それを責めることは出来ない。
けれど、今この瞬間、戦争を知らない私が、自分は絶対的な被害者であると思い込み、加害者になる可能性を考えないことは、少し危険なのかもしれない。戦争をしていない今だからこそ、自分が被害者にも、そして加害者にもなる可能性を考え、それを阻止するためにはどうしたら良いのか導く。それが恐怖の刷り込み教育の先にあるべき平和教育なんじゃないか。そう思ったのである。

子供らを被害者に 加害者にもせずに
この街で暮らすため まず何をすべきだろう?
ーー「タガタメ」Mr.Children

何百回も聴いていたのに、この歌詞の意味が、遠い外国で作られた映画を見て初めてわかったような気がする。

恋は立ちのぼるもの

以前書いた記事(脆弱な未来 - それから)の中で、私が他の男性とデートしそうになった時、「複雑です」と言った男性と、デートをしてきた(ややこしいな)。
イタリアンを食べて、コンサートに行っただけだけれども、デートといって差し支えないと思う。いや、私がデートと言うんだからデートなんだ。それで良いじゃないか、なんか文句あるかこのやろう(誰に言ってるのか)。

デートの間、ずっと私はその人に触れたいと思っていた。ピザを食べて右手が油でてらてらしている時も。会場へ向かうタクシーの中で乾燥した空気に手の甲が痒くなっても。コンサートの最中、行儀良く膝の上に乗せられたその手が視界に入る度に。触れたいと、思った。

その触れたいという気持ちは、私の頭の天辺から、東京の冬の空にもわりと湯気のようにたちのぼった。私には、その湯気が見えるようだった。そして不思議なことに、まるで子供の頃お漏らしをした瞬間の、恥ずかしさと快感がないまぜになったかのような、あの何とも言えない心地良さを感じた。あの心地良さにはまだ名前がない。吾輩は、心地良さである。名前はまだない。

でも、あなたは私があなたに対して思うほど、私に触りたいとは思っていなかっただろう。何となく、それはわかる。それでも良い。立ちのぼる湯気の中で、あなたの隣を歩くのは、とても心地良かった。

恋は、するものでも落ちるものでもなく、立ちのぼるものではなかろうか。そうじゃなかったか。
この感情に、名前はまだない。名前を付けられるのを待っている。