それから

ちょいと読んでかない?

見知らぬ町と雪の降る音

とても、ご無沙汰しております。

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年末に新幹線で九州の実家に帰った。首都圏から九州に帰るのに、新幹線で行く、と言うと、「えっ、なんで飛行機に乗らないの? 時間かかるじゃん」と驚かれることが多いけれど、私は新幹線の窓から眺める見知らぬ町(「街」ではない)の景色がとても好きで、6時間新幹線に乗っていることなどまったく苦ではない。
普段、東京の周辺で生活していると、まるで日本には都会しかないような気がしてしまうけれど、新幹線に乗ると、窓の外には確かに静かな日本の町が存在していてほっとする。特段美しくもない田園風景が延々と続き、瓦屋根の低層住宅が子供の散らかしたレゴブロックみたいに建っている風景。不思議とどこの町にも人の姿は見えない。小さく暖かな部屋の中にみな引っ込んでしまっているのか。そしてそこに住む人々に、私は永遠に出会うことはない。私は彼らにとって、ただ物理的に通り過ぎるだけの物体なのだ。だけどなんだかそれは、どこか心地良い関係なのだ。

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新幹線から鈍行に乗り換えてまた窓の外を眺めていると、かすかに雪が降っていた。注意深く見ないと雨と見間違えてしまいそうな、弱々しい雪だった。その雪は、地元の駅に着く頃にはすっかり姿を消していた。

雪が静かに降る様子を「しんしんと」と、表現した人は、誰だか知らないけれどとても素敵な人に違いないと思っている。

パラレルワールド

ふとLINEを開くと、とある知人男性とのトーク画面に、「メンバーがいません」という文字が浮かんでいた。男性とは前職に勤めていた時に知り合い、私が新しい仕事についた後も時々LINEで他愛もないやり取りをしていた。

「メンバーがいません」という状態になったのに気づいたのはその日の午後2時頃だった。そして、彼からの最後のメッセージは、それから遡ること半日前の夜中の12時か1時。「お疲れ様です」と一言、メッセージが送られてきた。やりとりのきっかけを作るのは大体いつも私なので、一言とはいえ彼から話しかけてきたことに私は「珍しいな」と感じた。感じつつも、仕事に疲れて眠りに入ろうとしていたこともあり、特に言及せず、「お疲れ様!」と返信した。そして私は束の間の眠りについた。明日もまた仕事が忙しい……。

そして翌日の午後2時頃、気がつくと彼は私のLINE上からいなくなっていた。調べてみると、このように表示されるのは、どうやらブロックされた訳ではないらしい。スマホの機種変更でLINEのアカウントを上手く引き継げなかったか、はたまた違う理由か。良くわからないけれど、そういう、ことらしい。だからといって何がどうなるというわけではない。

こうなってみて初めて実感したけれど、私は彼に連絡を取るすべを何も持っていないのだった。やりとりはいつもLINEでしていたので、携帯電話の番号も知らない。メールアドレスも知らない。Facebookも繋がっていない。LINEでの通信が絶たれた今、こちらから文明の利器を使って連絡を取るすべはない。

ただ、連絡を取る手段はゼロというわけではなかった。私は一度彼の家に行ったことがあるので、記憶を頼りに家に行くことはたぶん、できる。それから、前の職場に共通の知り合いが何人かいるので、その人たちに彼の近況を訊ねることもできなくはない。手段を選ばなければおそらく彼と繋がるのは不可能ではないのだ。

でも、私はそれをしようとは思わなかった。
それにはいくつかの理由があって、まず、家にまで押しかけるのはなんだかすごく気持ちの悪いことのように思われた。特に交際していたわけでもないのに、突然そんなことをされたら相手も困るだろう。それから、共通の知り合いに訊ねることも、万が一彼が自主的に私との関係を断ちたいと思っていた場合に迷惑になりそうだった。

だから彼の消息は今もわからない。消息っていったって、彼はたぶん行方不明ではなくて、もちろん死んでなんかもいなくて、普通に生きて、ご飯を食べて、仕事をして、遊んで、寝て、排泄して、たまにセックスもして、人生を送っている。だけど、私という人間の中では彼は行方不明だ。そしておそらく、もう二度と会うことはない。

私という人間の中で行方不明になった人々がこれまでの人生で何人いただろう。考えてみると覚えていないくらい無数にいる。そういう無数の人々の時間は、今も私の知らないところで進んでいるんだと思うと、不思議な感覚に陥る。
その「私がいない人生を過ごしている人の世界」は、SFでいうところのパラレルワールドと何にも違わないではないか。パラレルワールドというと、もう一つの世界にはもう一人の自分が生きているイメージがあるだろう。でも、例えばもう一つの世界では「自分は死んだ」のだとすれば、それはもう立派なパラレルワールドではないか。

ゴールデンウィークの真夜中にこんなことをつらつらと思いついて勢いで記しているだけなので、この話に結論らしきものは何もない。ただ少しだけ思ったのは、そんなパラレルワールドを無意味にたくさん作り出すのは、なんだかとても切なく、寂しいなあということだ。インターネットやSNSの発達を基本的に肯定してきた私だけれど、もしかしたらそういったものが無数のパラレルワールドを作り出す一端を担っているとしたらなかなか厄介だ。LINEが出来なくなったくらいで消滅する関係は、やはり寂しく、どこか歪である。

彼は何を思って、最後に「お疲れ様です」というメッセージを送ったのだろう。真夜中に放たれた言葉はスマートフォンの画面の中でどこへ行くこともできず佇んでいる。この世界はそんな言葉たちで溢れている。

MAGICAL WORLD

「人間界、生きづらいです」というのは鬼束ちひろの言葉である。
今から4年くらい前の発言なので、彼女の年齢は30歳を超えていた。私も30歳を超えて、同じことを思っている。むしろ歳を重ねるごとにその感覚は増すばかりだ。人間界が生きやすい人にとっては、「30も過ぎて何言ってんだか」と思われることが予想されるが、それこそが私を生きづらくしている思考だ。

○歳になったら、こうなっていなければいけない。日々生活していると、折に触れてその圧力を感じる。プライベートでは、いい年になったら「彼氏がいなければいけない」「結婚していなければいけない」「子供がいなければいけない」。仕事では、「就職しなければいけない」「年収は何百万円くらいはなければいけない」「これくらいの地位についていなければいけない」。ければいけない。ケレバイケナイ。

東京タラレバ娘よりも、日本ケレバイケナイ現象の方が深刻だと思う。そもそもタラレバ娘を生み出している根源は、そういった、「こうなっていなければいけない」という社会の無言の圧力に違いない。それがなければ、彼女たちの心はもっと自由なはずだ。

そんな圧力に苦しんでいる私を苦しめる言葉がもう一つある。
「人は人と思いなさい」というものだ。
「こうなっていなければいけない」と要求しながら、「人は人と思え」という矛盾。

鬼束ちひろの言っている「生きづらさ」が同じものかはわからないけど、彼女の歌を聴いているとその生きづらさが緩和される。世界の醜さを糾弾し、その中でもがく自分を嘆き、同じ思いを背負う人を癒す。それが彼女の歌の力だ。

また彼女の歌は、世界というものを批判しながらも、いい意味で「世界平和」などといった壮大な思想を感じさせないところが素晴らしい。あくまで、個人の持つ「世界」を歌っている。裏を返せば、個人の持つひとつひとつの世界が平和にならなければ、世界平和など成し遂げることはできないのだ。鬼束ちひろは、たぶんそのことを知っている。

「MAGICAL WORLD」という曲は、なんだか皮肉なタイトルだなあと思った。
こんな世の中でも魔法のように感じる瞬間は、確かにある。誰かが自分に好感を持ってくれた時、仕事で誰かの役に立てた時、それくらいだけれど。
生きづらさを感じる毎日で、そういう一瞬のきらめきに縋ることをどうか咎めないで欲しい。人間界が生きやすいと感じているあなたからは、何も成し遂げていないように見えるかもしれないけれど。

仕事に疲れ、終電の到着を待つホームで鬼束ちひろの曲を聴きながら、私はこっそりと明日も生きていく決心をする。

Tiny Screams

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