それから

ちょいと読んでかない?

二つの魂ーー続々・祖父のこと。

誇りーー続・祖父のこと。 - それから

上の記事を書いた数日後、祖父が亡くなった。
祖父のことをこのようにまとまった文章にしたことは今まで一度もなかったから、何かを感じてしまう。もしかしたら祖父が、「俺のことをちょっと文章にしてみてくれんか」と、私の魂に呼びかけたのかもしれない。そして、これからは祖父のことを書く時には、すべてが思い出の中のことだと思うと、悲しくてたまらない気持ちだ。

心不全だった。
あまり苦しまずに亡くなったようで、長い眠りについたその顔は、まるで穏やかな笑みを浮かべているようだった。最後にお見舞いに行った時、別れ際に握った手の感触が思い出される。
「また来るね」と言ったその「また」は、永遠に来ることはなくなってしまったけれど。

祖父が亡くなると、すぐに慌しく通夜の準備が始まった。
どういう間柄なのかわからない親戚の人々が次々と家に訪れ、私の悲しみが置いてけぼりにされているように思った。
納棺の儀の時に、感極まって泣いてしまい、祖父の体に触れることが出来なかった。
泣いているのは、私だけだった。

正直、なぜ周りの人々が涙一つ流していないのか、私は戸惑った。彼らと私の間にはどうしても越えられない壁があったように思えてならなかったからだ。その壁が何なのかは言葉で表現出来ないのだが。
父や叔母、姉にさえも壁を感じた。唯一、私が泣いてしまった時に涙ぐんだ母だけが、私と同じ側にいてくれるような気がした。

誰一人として泣いていない様子を見て、私は納棺のあと、母にこっそり言った。
「泣いてしまったのは、おかしかったかな? 子供っぽかったかな?」
それほど、私は泣いたことに対して不安というか、羞恥心みたいなものを感じていた。
母は言った。
「恥ずかしく思うことは何一つないのよ。あなたはおじいちゃんが大好きだったから。それで普通なの」と。

おかしな表現になってしまうが、私は自宅にあった時の棺の祖父を、何も宿っていない物体だと思った。魂はもちろん、それまで祖父が歩んできた人生も刻まれていない、紛れもない物としての物体だと。
仏教には輪廻転生という考えがあり、亡くなった人は来世でまた別の人として生まれ変わると言われているが、私にはどうもそう思えなかったのかもしれない。
祖父は祖父のままでいてほしい。他の誰にもなってほしくない。
祖父の魂は、天国に行くわけではなくて、私の中に在る。だから棺の中の祖父が何も宿っていない物に見えた。
だから最初の涙がひくと、私は祖父の遺体を見ても涙を流すことはなかった。

ところが、通夜が終わり、告別式も最後になって、いよいよお別れという時になると、棺の中の祖父に魂が戻ってきたかのように、私は涙が溢れて止まらなくなった。
棺の中で花に囲まれた祖父には、確かに魂が宿っていた。そして私の中の魂と呼応して、私にどうしようもない悲しみを感じさせたように思った。
祖父の魂は半分ずつになった。分かたれた魂のせいで、私は泣いた。人目もはばからず。
もう羞恥心を感じることはなかった。そして父も母も姉も叔母も泣いていた。

告別式が終わると、祖父の体は火葬場に運ばれ、骨だけになった。
箸渡しの儀式が行われ、私は箸で祖父の踵の骨をつかんだ。姉から骨を受け取る時に、白く大きなその骨からぱらぱらと灰色の骨のかけらが舞った。
それはきっと、祖父の歴史だった。
骨のかけらが降り積もるように、私の心にも祖父の思い出が降り積もっていく。
もう涙は、出ない。

今、左手首に祖父から買って貰った腕時計をはめて、この記事を書いています。
私は、私が書いた祖父についての文章を読んでくれた一人一人に、感謝の言葉を伝えたい気分です。
私は祖父の歴史の一部で、私がここにこうして文章を書いていることも祖父の歴史とつながっているからです。私の文章を読んでくれる人々にも、祖父の歴史は少しだけれど降り注いでいるのだと思います。
私は、大きな歴史に名を残すことなどない、昔気質で、頑固で、働き者の、そしてとびきり優しい一人の男の孫です。胸を張って、そう言えます。
祖父は有名でもお金持ちでもなかったけれど、私の中にこの半分の魂を、残してくれたから。