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無駄かもしれない時間を楽しみたいーー映画のエンドロールを最後まで見るか否かについて

映画 雑記

お正月に映画館で「ゼロ・グラビティ(3D)」を観てきた。
いやあ、すんごかった。すんごいものを見させていただいた。それについては追々書くとして。今日は映画のエンドロールについて書きたくなったのでワシワシと書いてみる。

私は映画のエンドロールは最後まで見る派だ。「ゼロ・グラビティ」の時も、家族と映画館に行ったのだが、家族全員がエンドロールの最後まで自分の席でスクリーンを見つめていた。
その姿勢を見て、私はなんだか思った。「ああ、血がつながってるなあ」と。映画のエンドロールで血のつながりを認識するなんて、おかしな話だけれども。

で、映画のエンドロールと言えば、雑誌「考える人」のインタビューで村上春樹氏が、「映画のエンドロールなんて見ない。誰がケータリングしたかなんて知りたくもない。エンドロールが始まったらさっさと帰るアメリカ人が好き」というようなことを言っていたなあ、と思い出した(いま手元に雑誌がないので引用出来ないけど、ほぼ合ってると思う)。

ネットで検索すると、2005年にも同じようなことを言ってたんだなあ。
この村上氏の発言に対してのfujiponさん(id:fujipon)の興味深い記事も読ませていただいた(映画のエンドロールを最後まで観る? - 琥珀色の戯言
なるほど、村上氏の発言の意図をそう読むこともできるのか。ふむふむ)。
私も、おくればせながらこのことについて書いてみる。

実は、上の村上春樹氏の発言を私が読んだ頃に、たまたま氏の「ノルウェイの森」の映画版が公開されていて、その映画「ノルウェイの森」には、私の映画学校時代の友人がスタッフとして関わっていた。私は映画「ノルウェイの森」を見に行った時、やっぱりエンドロールを最後まで見たし、友人の名前もしっかり見つめてきた。だから、そんな折に件の村上氏の発言を読んだ私はもうマツコ・デラックス有吉弘行も真っ青の怒り心頭でござった。「どれだけの人が身を削ってあんたの小説を映画化したんだと思ってんじゃい」ってなもんだ。

しかし考えてみればそんなの村上春樹氏にはまったく関係のないことである。私の友人が誰であろうが、どんなに映画製作に情熱と労力を注いでようが知ったこっちゃないだろう。うん。

けれど恐れ多くも私が村上春樹氏に言いたいのは、映画って相当数の人(スタッフ等)の時間を削って作られてるんだよってことだ。あなたが命削って(るかどうかはわからないけれど)書いた文章が、人々の時間を削って映像として制作されてるんだよ、ってことなんだ。
上で映画学校時代の友人、と書いたことでわかる通り、私はかつて映画学校に通っていた(ちなみに、ちゃんと卒業しましたが、今は映画関係の仕事はしておりません)。
そこで私が学んだことを要約すると以下のような一文になる。
「こんな面倒くさいことまでして2時間とかの映画作っちゃう人たちは相当狂ってる」
なんか、身も蓋もないというか、学費払って何を学んでんねん、な言葉だが、もうこの一文に尽きるんだなあ。

脚本制作、ロケハン、スタッフ&キャスト集め、予算の組み立て・管理、撮影スケジュールの作成と調整、撮影、仮編集、効果音作り、本編集(ネガ切り貼り。失敗したら終わり)その他もろもろ。そして極めつけは、効果があるのかわからないという不安の中で行う宣伝。
で、この一つ一つの作業の中に、さらに細かい作業が山積みになっていて、しかもそこには厳しい予算設定と締切りがある。
そして最大の脱力ポイントはこれですよ、「こんなに身を削って作ったからといって、売れるかどうかわからない!」
やっぱり、こんな面倒くさいことまでして2時間とかの映画作っちゃう人たちは相当狂ってる。
映画業界に就職もしていない私がこんなこと言っていいのか、という一抹の不安はあるが、映画業界に就職していないからこそ言えるってところもあると思う。

で、結局何が言いたいかというと、一人の人間の娯楽費としてみた場合には「1800円」という映画料金は高いとは思うが、「映画」という一つのモノを制作して、それを商品として見てもらう際に受け取る料金としては、「1800円」は破格も破格、ってことである。実際の利益云々の話じゃなくて、労力に見合っていない。映画はブラック企業ならぬブラック芸術だと思う。

だから、自分の時間を割いて、エンドロールを最後まで見るくらいのことはしてやってもいいんじゃないかなあ。
というより私は、「エンドロールを最後まで見るなんて貴重な僕の時間の無駄」とクールに言ってしまう人より、そういう映画のエンドロールのような、自分にとって無駄かもしれない時間を楽しめる人が好きなんだよね。
余白がある人って言うのかな。上手く表現出来ないけれど。なんかその方が、無駄でも楽しいじゃないですか。そして自分もそういう人間でありたいと思ってしまうんだよね。

書いていて気づいたのだが、スタッフに対する敬意にプラスして、私は多分、自分自身のためにエンドロールを最後まで見ているのかもしれない。ああ、私はまだこの時間を楽しめる人間だったんだなって確認するために。
エンドロールが始まったらさっさと席を立ってしまう人は、物理的な時間を取らなくても余韻を楽しめるのかもしれないけれど、私はそこまで器用ではないし、余韻というものには余韻のためのそれなりの時間が必要だと昔から思っている。
もちろん、さっさと席を立つ人を非難するつもりはまったくない。本当に忙しい人もいるだろうし、自分の時間を無駄にしたくないって、本来なら至極まっとうな理由だと思うから。
だけど、せっかく約1時間半なり2時間なり自分の体を自ら拘束して映画という世界に身を浸したならば、スタッフに敬意を込めつつ、最後までその世界を楽しんでみるのもおもしろいと思う。まあ無駄に終わるかも、しれないけれど。その無駄が積み重なって何かが見えてくるのを信じるのも、また一興じゃないですか。

エンドロールを見るか見ないっつーことだけでもやもやと長たらしく語ってしまいましたが、映画を愛する者のひとりとして、私はこうだよ、ってことを書いてみました。
そういえば、映画「ノルウェイの森」を観た感想ですけど、正直に言って私にとっては面白くなかったです。たとえ大好きな小説家が原作を書いていたとしても、友達がスタッフとして参加していてもそこはまた別の話です。
それでも懲りもせず映画館のシートでエンドロールをじっと見つめていた無駄な時間を楽しむ私。もしかしてそんな無駄な時間を過ごしているもんだから出世出来ないのか? などと一瞬思ったが、それもまた、別の話だと思う。