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「まともじゃない」ということ

正夢
正夢
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スピッツ
ユニバーサルミュージック (2004-11-10)
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この記事を書きながら、スピッツの「正夢」という曲を聴いている。良い曲だ。今日みたいな祝日の午後に聴くと癒される。草野さんの遠くまで見通してしまっているような透明な声が胸に響く。だけど、この曲は私にとって癒されるだけの曲ではない。

サビの最後に、「ずっと まともじゃないって わかってる」という印象的なフレーズが出てくる。

どうか正夢 君と会えたら
何から話そう 笑ってほしい
小さな幸せ つなぎあわせよう
浅いプールで じゃれるような
ずっと まともじゃないって わかってる

それまでの歌詞から比べると、最後の「ずっと まともじゃないって わかってる」という部分は、なんだか唐突で違和感がある。「小さな 幸せ つなぎあわせよう」と、希望に溢れたことを言っていながら、最後には何かを諦めている感じである。この不安定な感じがスピッツらしいと言えばらしいのだが。

この「まともじゃない」という言葉について、私自身、少し思うところがある。このブログを読んでくれている人の中にももしかしたらいらっしゃるかもしれないが、世の中には「共感覚」という感覚を持つ人がいる。
共感覚 - Wikipedia
簡単に言うと、文字や数、音に色が見えたりする感覚のことを言い、その中でも音楽を聴くと音のひとつひとつに色を感じる性質を「色聴」呼ぶようだ。

実は私は、聴く曲ごとに特定の色がついている。それは初めてその曲を聴いた時に見える色をつけているだけなのだが、私はつい最近まで、これを当たり前のことと思っていた。私以外の誰もが同じように曲ごとに違った色が「見えている」と信じきっていた。しかしどうやらそうではないらしいということに気づき、それが確信に変わったのは、少し前のことである。

仕事でストレスを溜め込んでしまい、精神科の扉を叩いたことがあった。心身の疲れが私の中に蓄積し、渦巻いている時期だった。といっても、原因は仕事のストレスということがわかっていたので、その仕事から物理的に距離を置くことで症状は快復していった。しかし、この際だから今まで自分が不思議に思っていたことや苦痛に感じていたことを聞いてもらおうと思い、私は先生にこんな質問をしてみた。
「人の言葉が時々聞き取りづらい時があるんですが、それもストレスのせいなんですかね?」と。
もう随分前、子供の頃から感じていたことなのだが、私は時々人の喋っている言葉が言葉として認識できないことがある。聴力が弱いわけではない。聴力が弱いのかと思い耳鼻科に何件も通ったが、そこでの診断はすべて「異常なし。難聴ではない」だった。聴力の問題ではない。それは自分もなんとなくわかっていた。音は聴こえている。音は聴こえているものの、それが一体何という言葉なのか、判別するのが難しいといったらわかるだろうか。ギリギリ仕事に支障が出ない程度なのだが、昔からそういった感覚を常に持っていた。もしかしたら心因性のものなのか? と思い、私は先生に訊ねてみたのである。
すると、先生は私にこういった質問をしてきた。
「音に色がついて見えたりすることはありますか?」と。私は、
「曲ごとに色がついています」と答えた。
「ああ。そうなんだね」と先生は頷いた。そしてこういう話をしてくれた。
共感覚という性質を持った人がいてね。1万人に1人くらいの割合で音を聴くとひとつひとつに違った色が見える人がいるんだけど」
「でも私はそこまでではないですよ。ひとつひとつにまで色は見えない」
「うん。でもね、その独特の音の聞き方がちょっと影響してるかも、しれない」

なんだかにわかには信じられなかった。正直、今でも疑っている部分もある。しかし聴力にも問題はなく、発達障害でもないとすると(発達障害のテストを受けた時のことはこちらに書いてます→書くということ、話すということ - それから)、その生まれ持った感覚が影響しているということもあるのかもしれない。ある意味では、私は「まともじゃない」のだ。言い方は悪いけれど。

「まともじゃない」という感覚は、物心つく前から私の中にあった。それは本当に「感覚」としか言えないものなのだけれど、確かにあった。でもそれは、きっと人間なら誰もが感じることだと思うし、特に多感な若者の中には芽生えやすい感覚だと思う。むしろ若者は好んで「まともじゃない」方向を選ぶことすらある。若さ故の情熱と愚かさを持って「まともじゃない」ことへひた走ることがある。だけど今の私の感じる感覚は、もっと穏やかなものだ。振り向けばいつでもそこにいて、微笑んでいる親友のような存在。その微笑みは時にあたたかく降り注ぎ、時に冷たくのしかかる。
その感覚はもしかしたら、スピッツの「正夢」にあるように「ずっと まともじゃないって わかってる」から、なのかもしれない。それが良いことなのか悪いことなのか、今の私には判断がつかない。だけれども「まともじゃない」ことをわかっているのとわかっていないのでは、きっと生き方も変わってくるのではないだろうか。

私は自分が「まともじゃない」ことを受け入れている人が好きだし、その中で精一杯生きようとしている人が好きだ。人それぞれ、「まともじゃない」事柄は違って、その重さや困難さはそれぞれだと思うけれど、少なくとも私は他人の「まともじゃない」を一瞬でも立ち止まって考えられる人でありたいと思う。

ちなみに、私の中でスピッツの「正夢」はとても明るい色をしています。それはそれはとても綺麗な、色です。