それから

ちょいと読んでかない?

映画「ヒトラーの忘れもの」を見て、長崎で育った私が感じたこと

ヒトラーの忘れもの(字幕版)

ヒトラーの忘れもの(字幕版)

  • 発売日: 2017/06/06
  • メディア: Prime Video

概要(「ぴあ映画生活」より引用)
デンマークアカデミー賞にあたるロバート賞で作品賞など6部門を制した歴史ドラマ。第2次大戦後に捕虜になったナチス少年兵たちがたどる凄惨な運命を描く。なおも引きずられた民族間の軋轢や、人命に対する軽々しい扱いといった戦争の傷跡を、詩情に満ちた映像の中に浮かび上がらせる。東京国際映画祭では『地雷と少年兵』のタイトルで上映。

私は結構戦争映画を見ている方で、それも、映画好きでたくさん映画を見ていたらほとんどの戦争映画を見ていた、というパターンではなく、意識して、率先して、戦争映画を見ている。誰かから「どんな映画が好きなの?」と訊かれた際は、「戦争映画」と答える。ふと映画を見ようと思い立った時は、とりあえずジャンル:戦争映画の中から作品を選ぶ。ちなみに、ジャンル:ラブストーリーは滅多に物色しない。

これは不思議な矛盾になるのだけれど、私は戦争については絶対的に反対だ。それは、私が被爆地・長崎県の出身であることも少なからず影響している。長崎県で育った人間は、子どもの頃から他県の子どもよりも平和教育を受ける機会が多い。毎年8月9日は夏休み中にも関わらず学校へ登校し、体育館で延々と被爆者の写真を見たり、体験を聞いたり、原爆は許せない、平和は尊い、というような歌を合唱する。「夏休みの友」(今もあるのかな?)には必ず原爆関連の課題があり、道徳の教科書にも被爆体験が登場する。小学生時の課外授業で長崎の原爆資料館に行き、中学校の修学旅行で広島の原爆ドームに訪れる。そのようにして、原爆とは悲惨なもの、という感情を子どもに教え込んでいく。

とても言い方は悪いけれど、「教える」というよりは、「刷り込む」とか「植え付ける」という教育の仕方だと思う。でも、私としてはそれは正解だと感じている。なぜなら、平和の尊さを児童に理解してもらうには、まずそれを壊す存在(=原爆)がどれほど惨いものなのかをショックを覚悟の上で見せつけるのが近道だからだ。いくら言葉で「戦争は駄目」「平和を大切に」などと連呼したところで、戦争を知らない世代にとっては、実感には成り得ない。それなら、「戦争をした結果、どれほど悲惨なことになるか」というのを見せた方が、「こんな酷い思いは絶対にしたくない。だから今ある平和を大切にしなきゃ」という思想に導きやすいと思う。

実際、私も先に書いたような平和教育を受けて、戦争というものに強い恐怖を感じていた時期があった。小学生の頃、夕方ひとりで留守番をしていると、家の上空を旅客機が飛んでいく。その音を聞いて、飛行機が今にも爆弾を落としていくんじゃないかと想像し、鼓動が異常に速くなって冷や汗が額を流れる。日本はもう戦争なんかしていないから、そんなこと絶対にあるわけないのに。そんな時期が、高校生になるくらいまで続いた。明らかに、平和教育のトラウマである。けれど、それがあったからこそ、大人になった今、絶対に戦争をしてはならないという想いが私の中に強く根づいている。その意味で、あの教育は間違っていなかったのだろうと思うのだ。

矛盾と言ったのは、そんな風に戦争への絶対的な反対意識を持っていながら、フィクションとしての「戦争映画」を好ましく思っているところだ。他に言い換える言葉がほんとうにないのだけれど、私は「戦争映画」が「好き」なのだ。「好き」としか言いようのない思いで、好んでそういう映画を見ているのだ。極限状態での人間の心理だとか、人と人との交流だとか、戦争映画で得られるそういった表現に心惹かれる。これは一体何なのだろうと常々思っていて、ずっと不思議と戸惑いの中で戦争映画に触れてきた。そして今回、「ヒトラーの忘れもの」と出会って、少しだけその理由がわかった。

この映画の一番の見どころは、地雷撤去のために連れてこられた元敵国ドイツの少年兵たちを統率する、軍曹の心の動きである。このデンマーク人の軍曹、冒頭からドイツ兵に対する憎しみをこれでもかと発揮する。彼にとってはドイツ人であることだけで憎しみの対象足り得るのである。この冒頭が、後からかなり効いてくる。
当然、地雷撤去の少年たちもドイツ人で、軍曹の憎悪の対象になる。しかし、彼らと接し、彼らの中に自分と同じ人間の心を見た軍曹は、徐々に彼らと心を通わせていく。ここらへんの心理のグラデーションの見せ方が実に見事で、かなり惹き込まれた。あれほど嫌っていたドイツ人と笑い合うまでになる軍曹。だがある事件が起こり、彼はまた少年兵たちへの態度を硬化させる。この軍曹は、作品中で何度も何度も被害者意識と加害者意識の中を行ったり来たりするのである。これほどまでに揺れ動く心を見せつけられた映画は他にない。だが、ふともっと俯瞰した視点で思い返してみれば、この軍曹の行ったり来たり(もしくは矛盾が同居している状態)は、個人単位だけでなく、国家単位でもあることなのだ。日本は敗戦国ではあるけれど、ある国や地域からみれば加害者たる存在なのだろう。戦争という行為は、そういう立場の複雑化を生んでしまう。好むと好まざるとに関わらず。加害者であり、被害者。被害者であり、加害者。そしてそれが軋轢を生み、新たな諍いを生んでいく。

もしかしたら、と思う。もしかしたら、私が「戦争映画」を「好き」と言って、好んで鑑賞していたのは、自分は敗戦国・日本、そして被爆地・長崎の出身で「絶対的な被害者である」という認識があったからかもしれない。自分が絶対的な被害者である内は、心の呵責を感じずに済む。もちろん、実際に戦争の被害者になったとしたら、そんな心の余裕はないだろうし、加害者を憎むことだろう。それを責めることは出来ない。
けれど、今この瞬間、戦争を知らない私が、自分は絶対的な被害者であると思い込み、加害者になる可能性を考えないことは、少し危険なのかもしれない。戦争をしていない今だからこそ、自分が被害者にも、そして加害者にもなる可能性を考え、それを阻止するためにはどうしたら良いのか導く。それが恐怖の刷り込み教育の先にあるべき平和教育なんじゃないか。そう思ったのである。

子供らを被害者に 加害者にもせずに
この街で暮らすため まず何をすべきだろう?
ーー「タガタメ」Mr.Children

何百回も聴いていたのに、この歌詞の意味が、遠い外国で作られた映画を見て初めてわかったような気がする。