それから

ちょいと読んでかない?

自分より年下のミュージシャンの音楽を聴くということ

つい最近、職場で同僚と最近聴いている音楽の話をした。偶然にも、お互い聴いていたのがわりと若いアーティストだった。最近の若い人、良いよね。そんな風に言い合っていると、同僚がこう呟いた。

「自分より若いミュージシャンの音楽聴くのに抵抗があったけど、それを抜けた気がする」

嗚呼、自分と同じことを思ってる人がいたんだ、とちょっとびっくりした。
同僚も自分も30代の前半なのだけど、たぶん、いやきっと、その年齢は『自分より若いミュージシャンの音楽を聴くのに抵抗がある』のに多いに関係していると思う。

自分で音楽を本格的に聴き始める10代後半から、ある程度自分の好みが確立してくる20代半ばまでの期間、リアルタイムで勢いよく活躍している音楽の作り手は自分より年上か、もしくは同年代のことが多い。
自分より人生経験の豊富な年上の作る音楽は素直にリスペクトできるし、同年代の活躍は少しの嫉妬を感じつつも刺激になる。

だが、20代後半になると、作り手の年齢と自分の年齢が逆転してくる。活躍しているミュージシャンに年下が増えてくる。20代前半で700万枚売れるアルバムを作って1億円の家を両親にプレゼントしているテイラー・スウィフトみたいな化け物は置いておくとしても、国内外問わずヒットチャートを賑わすミュージシャンの生年月日を見て驚くことが多くなってくる。

「この人も、年下なのか……!」

そしてその言葉の後はこう続く。

「この人(たち)はこんなにすごい音楽を生み出して世の中に認められているのに、自分は何も生み出していない……。自分は何者にもなれていない」

今考えると阿呆らしい思考なのだが、私にはそんな風に思う時期が確かにあった。自分には何か突出した才能があるに違いないという期待が、いよいよ本当に「ただの幻想」だったと突きつけられる時期。世界を変えることはできないんだと、悟る時期。
年下の売れているミュージシャンというのはそれを感じ取る象徴なのだ。ミュージシャンは、科学者や多くの政治家と違って、学歴や家柄が良くなくてもなれる=かつては自分と同じスタート地点に立っていたように見えることも、そういった感情を抱く原因かもしれない。

そうして私は自分より年下のミュージシャンを無意識に聴かなくなった。
ビートルズマイケル・ジャクソンなど、嫉妬なんて一ミリもしない神様たちの音楽を聴いていた。彼らの音楽は、今でも大好きだ。そこには普遍的な煌めきと本質があるから。

けれど、どこかでいつも思っていた。もっと新しいものはないのか? 約束された感動じゃなく、先の見えない危うさを楽しむような音楽はないのか?

そんな私の目の前に現れたもの。それはApple Musicだった。時は2015年。
私の音楽ライフに革命が起こる。いや、大げさじゃなく。月額980円で無数の音楽に出会える素晴らしさ。ベッドに寝っ転がって新しい曲をすぐに聴くことが出来る音楽のどこでもドア。その頃から私は、自然と自分より年下のミュージシャンの音楽を聴き始める。

そして、二つのバンドとの出会いが私の落胆を吹き飛ばすことになる。

その一つはイギリスのバンド、Catfish and the Bottleman。

ザ・バルコニー

ザ・バルコニー

そしてもう一つは、日本のOKAMOTO'S。

NO MORE MUSIC

NO MORE MUSIC

彼らは自分よりも年下で、天才だけど、同じ今を生きている感じがした。こんなに素敵な音楽に出会えるのなら、もっと新しい音楽を聴きたい。それから私は年下のミュージシャンの音楽を聴くことに抵抗がなくなった。

それは自分を諦めたということなのだろうか? 自分が才能のある人間ではないと悟ったのだろうか?
いや、違う。上手く言語化できないけれど、そういうネガティブな感情じゃない。私はまだどこかで、自分は世界を変えられると思っている(ほんのかすかにだけど)。でも、その世界はひとつではなくて、何人もの人間の中にいろんな形で存在していて、色んな人が、色んな世界に影響を及ぼし合いながら生きているんだ。CatfishとOKAMOTO'Sに出逢って心の扉を開いてもらってから、そんな風に考えられるようになった。

これを読んでいるあなたにも、そんなミュージシャンはいただろうか?
それはいったいどんな音楽だったんだろうか? 聞いてみたいと思った。

自分より年下のミュージシャンの音楽を聴くということ。
それはこれからの人生でいちばん楽しみなことのひとつだ。