それから

ちょいと読んでかない?

Man In The Mirror

長くブログを書くことをしていなかった。
昨年の6月に転職をして、新しい仕事を覚えることに必死だったというのがいちばん大きい。仕事が忙しくなると、自分から何かをアウトプットする行為が激減する。目の前の作業の処理に追われてしまい、何かを創作するというのが難しくなる。そうやって創作をさぼっていると、いざ文章を書こうとしても、頭の中に言葉がバラバラに散らばっているので、それを整理してひとつのまとまった文章にするのにとてつもないエネルギーがいる。これを書いている今も、何とか言葉をかき集めて時間をかけながら記事を書いている。キーを何度回してもエンジンがかからない車みたいだ。

言葉というものは私にとって、気軽なものじゃない。それは子供の頃にいじめられた経験も関係しているかもしれない。机のなかに、私の悪口ばかりが書かれている手紙が机に入っていたこともあった。
言葉は人を殺せる。本気でそう思っているから、ひとつの記事を作るのにも、ひとつひとつの言葉にも責任を感じる。だから時間が掛かる。そんな自分の気質が煩わしいと思う時がたまにあった。言葉を考えすぎて、上手く喋れなくなった時期もあった。たとえ誰かを少し傷つけたとしても、なめらかに言葉が出てくる人を羨ましく思うことがあった。

でも、最近、上司にこんなことを言われた。
「鳥山さんは取引先に対して人を傷つける言い方をしないだろうっていう確信があるから、信用できるんだよ。それって素質だから、結構仕事として教えようとしても難しいことなんだよ」

とても嬉しかった。自分が気をつけてきたことは、やっと間違いじゃなかったと思えた。
だからこれからも、私は時間をかけて言葉を紡ぐと思う。
だけどそれが私なのだと、今は思える。

いつも色んなことに迷った時に聞く曲がある。
大好きなマイケル・ジャクソンの「Man In The Mirror」。
作詞はマイケルの「キャント・ストップ・ラヴィング・ユー」でデュエットしている歌手・シンガーソングライターのサイーダ・ギャレットである。マイケルは自分の曲は自分で作りたい人だったと思うけれど、自分以外が制作したこの曲のことをお気に入りだと語っていたそうだ。
マイケルのファンになって、マイケルの目指していたものや思想に触れる度に、彼の曲のなかで一番彼自身を表している歌詞はこの「Man In The Mirror」だと感じるようになった。
それを書いたのがマイケル自身ではなく、別の人だということに、いつも私は言葉の魔法を感じずにはいられない。

「ソルファ(2016)」のラストトラックが「海岸通り」であることの私なりの解釈と、アジカンから受け取ったメッセージについて

ソルファ (2016)(通常盤)

ソルファ (2016)(通常盤)

最近、もう一つのブログでこんな記事を書いた。
ijimerarekko.hatenablog.jp
その中で私は、こう言い切っている。
「私はいつも、『今が自分史上最高の自分だ』と思って生きている」と。

それでも、生きていれば人生色んなことがある。有名でもなんでもない私の人生の物語は、ハリウッド超大作ではなく、大学生が小遣いをはたいて作った自主制作映画のようにチープで粗削りだ。時々、何のために生きているのかわからなくなる時がある。気がつけば、スクリーンを見つめているのは自分自身だけ。自分だけが、この映画を気にかけている。シナリオもカメラワークも音楽も、すべてが拙くちぐはぐだ。極め付けは主演俳優の魅力のなさ。ラジー賞にノミネートするという次元にすらいけない、自己満足の自主制作映画。そんな物語を生きているような不安に駆られる時がある。

何度目かのそんな気分を感じていた今日この頃、ASIAN KUNG-FU GENERATIONが昨年発表した「ソルファ(2016)」を聴いた。このアルバムは、2004年に同バンドが発表したアルバム「ソルファ」の再録版である。12年の時を経て、一部曲順変更はあるものの、「ソルファ」のすべての曲が「今のアジカン」によって焼き直された。
2004年版は発売時、アジカン初のオリコンチャート1位を獲得し、彼らの人気を不動のものにした邦楽ロックの名盤である。今現在30歳前後の人たちにとっては、好むと好まざるとに関わらず青春時代を思い起こさせる1枚かと思う。友達と行ったカラオケボックスの中で、何回「リライト」のサビを歌い叫んだことか。

きっとアジカン自身にとっても、「ソルファ」は特別な作品であることは間違いない。再録版のリリースこそがその証拠だ。過去の自分たちの作品を今の自分たちで再現する。ややもすれば、「オリジナルの方が良かった」と言われかねないリスクを多分に含んでいるその挑戦をなぜ、アジカンはしたのか。

答えは聴いてわかった。畏れ多くも、「嗚呼この人たちは、私と同じことを思ってたんだ」と確信した。そう、「ソルファ(2016)」に収められた曲たちの歌声から、演奏から、「俺たちは常に今この瞬間が俺たち史上最高なんだぜ」という想いと煌めきが、とめどなく溢れ出ていた。

「リライト」のサビは少し大人びて無鉄砲さがなくなっていたけれど、静かに燃える情熱を孕んでいた。「Re:Re:」の長いイントロには、今まで歩んできた道のりが浮かび上がり、戻ることの出来ない日々や風景に対する切なさが増していた。
そしてラストトラックの「海岸通り」。2004年版のラストを飾っていたのは「ループ&ループ」だったが、こちらは今回トラック3へ移動し、「海岸通り」へその席を譲った。アルバム構成の上で2004年版と再録版で最も大きな改編はこの部分かと思うが、これがかなり痺れる改編となっている。
「海岸通り」の歌詞とメロディは、春の別れと新しい出発を予感させるものだ。前作のトリを飾っていた「ループ&ループ」はそのタイトルの通り、がむしゃらに毎日を繰り返して(ループしながら)その積み重ねをいつかぶち壊して飛び出したいという力みのようなものを表現していた。それが「海岸通り」に取って代わることで、もうもどかしい思いがループすることはなくなった、不満や不安はあるけれど、僕たちは穏やかな希望とともに前に歩いていく、そんなメッセージを伝えているかのようだ。
だからこの「ソルファ(2016)」のラストは「ループ&ループ」ではなく「海岸通り」でなければならなかった。
そう思うのは、私が2004年版の「ソルファ」を多感な年齢に聴いていたせいだろうか。例えそうだとしても構わないし、2004年版を知らなかった若い人たちには、ぜひ両方を聴いて小さくはない変化を楽しんで欲しい。2004年版の方が魅力的だと感じるかもしれない。でもそれは決して間違いじゃない。なぜなら2004年版の「ソルファ」を作ったアジカンも、その時史上最高のアジカンで、そのアジカンが今の君に共鳴したんだから。まるで力強く構えたカメラのピントが合うように。

2004年版の「ソルファ」を「オリジナル」とは呼びたくはない。だって「ソルファ(2016)」も、紛れもなくアジカンのオリジナルなのだから。しかも彼ら史上最高の、音楽なのだから。

ソルファ

ソルファ

最良の距離ーー「海街diary」

海街diary

海街diary

あらすじ(「ぴあ映画生活」より引用)
鎌倉で暮らす三姉妹、幸、佳乃、千佳の元に、15年前家を出ていったきり一度も会っていなかった父の訃報が届く。葬儀のため山形に向かった3人はそこで異母妹すずと初めて会う。身寄りのなくなったすずに、長女の幸は鎌倉で4人で一緒に暮らそうと提案する。

今更だけど映画「海街diary」を見た。とてもとても、良かった。奇跡のような映画だった。一言で言うなら、これは、自分の「家」を見つける物語だと思った。

***

去年から今年にかけての年末年始、私は九州の実家に四日間ほど帰省していた。実家は、海こそ見えないものの、この「海街diary」で四姉妹が住んでいるような古くて大きな家で、色々な場所にがたがきているけれど畳に寝転がると安心出来るような、そんな家だ。「キッチン」じゃなくて「台所」で、「トイレ」じゃなくて「お手洗い」。立て付けの悪い天袋の中に、何かこの世のものじゃない生き物が潜んでいそうな。そんな家。
というと、なんだかとても居心地が良い家のように聞こえるかもしれないけれど、実は私は、この家にずっといるとしんどくなってくる。年にたった一回の帰省なのに。たった四日間の滞在なのに。家族と仲が悪いわけじゃないのに。四日目を過ぎると、早く首都圏にある一人暮らしのマンションに戻りたくなる。そして、滞在している時はぎこちなかった家族との仲も、マンションに戻った途端良好になる。メールで、素直に感謝の言葉を送ったりなんかして。すごく、良い関係になる。

そんなことを繰り返すたびに、人と人との間には適切な距離があるんだなあと思う。たとえ血の繋がった両親やきょうだいでも。物理的に離れていた方が良好な関係を保てる場合があるのだ。
海街diary」で言うなら、大竹しのぶ演じる母と綾瀬はるか演じる長女・幸の関係がそれに当たると思った。幸は母が家を出て行ったことに憤りを感じながらも、今は自分が家を守り続けていくことを大切に思っている。母は遠く離れた土地で暮らしている。頻繁に顔を合わせるわけではないようだ。だがきっと、この母娘にとっては、今のこの物理的距離が良い関係をもたらしているのだと想像がつく。会うたびに衝突をする。でも、別れる時にはお互いの幸せを願っていることを実感する。それは普段の物理的距離があってこそ。その適切な距離のなんと尊いことだろうか。駅の改札前で別れる二人を見てそう思った。

一方で、これまた家を出て行った父の残した腹違いの妹・すずにとっては、三人の姉と同じ屋根の下で暮らすことが最良の距離となったことがわかる。最初は遠慮がちだったすずが、だんだんと心を開いていく様がとても微笑ましかった。
「お姉ちゃんたちの前では、お父さんのこと話しにくいんだよね」と言っていたすずが、佳乃から母(すずの母ではない)の話を聞き、千佳から「いつかお父さんの話聞かせてね」と言われ、最後に「ここに居ていいのよ」と幸から抱きしめられる。この映画はすずが「家」ーー物理的であると同時に精神的なーーを見つけるまでの物語なのだ。そのことが、しみじみと伝わってきてなんだか随所で泣きそうになってしまった。

それから、四女・すずを演じた広瀬すず(この名前がもう奇跡)が奇跡だった。演技が上手いとかじゃなくて、この時期、この瞬間の広瀬すずを映画として記録できたのは凄いことだ。子供でも大人でもない、人生において本当に短く儚い一番美しいとも言える時期の広瀬すずを「海街diary」という素敵な物語の中に焼き付けた、それだけで賞賛に値すると思った。リュック・ベッソンが「レオン」においてナタリー・ポートマンを映画として残したのと同じくらい。もしもあと一年撮影時期が遅くなっていたら、この映画の魅力は三分の一ほど減っていたと言っても過言じゃない。特に桜並木の中を自転車で疾走するシーンは息を飲む美しさ。髪にひとひらの桜が落ちてそのあと飛んでいく画なんて奇跡としか言いようがない!

私もいつの日か、すずみたいに心の家を見つけたい。血の繋がりはなくとも、誰かがいて、私が帰ると炬燵の中から「おかえり」と言ってくれるような。見つかるかな。見つかるといいな。いや、見つけると思う。「海街diary」は、そんな風に不思議と穏やかな前向きさをくれる素晴らしい映画だった。