それから

ちょいと読んでかない?

細木数子ができなかったこと──『地獄に堕ちるわよ』を見て考えた“創造”について

(最終話に触れています)
前置き:このドラマは実話をベースにしたフィクションということです

最近Netflixで「地獄に堕ちるわよ」を見た。
作品そのものも面白かったのだけど、特に印象に残ったのは、最終話で小説家・魚住美乃里(伊藤沙莉)と細木数子(戸田恵梨香)が対峙するシーンだった。

多くの人はあのシーンを、「権威との対決」や「支配と反抗」のように見るかもしれない。
でも私は、あれはもっと根源的な、「創造とは何か」の対比に見えた。

魚住にとって、小説を書くことは単なる仕事ではない。
生活のためでも、承認のためだけでもなく、“存在する理由”そのものだ(とセリフでも言っている)
苦しみや孤独、言葉にできない感覚を、書くことでようやく世界に置き直しているように見える。

一方で、細木数子は「意味を与える人」だ。
彼女は“大殺界”のような概念を生み出し、人々の不安や欲望に名前をつける。
それはある意味で非常に強力な才能だと思う。

人は意味のないものに耐えられない。
だから誰かが「これはこういう意味です」と言ってくれると安心する。
占い、ブランディング、宗教、流行――それらは全部、ある種の“意味づけ”の技術でもある。

作品を見たあと、知人とこの話をしていた時に、
「(ドラマの中の)細木数子って、結局なにも生み出してないんじゃないか」という話題になった。
でも会話を続けるうちに、むしろ彼女は“大殺界”のような概念そのものを生み出していたのだ、という結論に近づいていった。
つまり彼女は、「意味のないものに意味を与える」こと――言い換えれば、センスメイキングに長けていたのかもしれない。
その考えには、妙に納得感があった。

でも同時に、私は魚住の創作とは決定的に違うものを感じていた。
なぜなら細木数子的なものは、常に「他人の欲望」があって成立するからだ。
不安、恋愛、成功、未来を知りたい気持ち。
それらが存在するからこそ、意味づけは力を持つ。

でも創作は、ときに誰にも求められていなくても始まってしまう。
理解されなくても、利益にならなくても、「作らずにいられない」から作る。
そこに私は、少し残酷なくらい純粋なものを感じる。

だからあの対峙シーンでは、細木数子は、魚住の持つ“創造の核”にどこか羨望を抱いていたのではないかと思った。
自分は人々の欲望に意味を与えることはできる。
でも、「誰にも頼まれていないのに、自分の内部から湧き上がるものを生み出す」ことには届かない。
思えばドラマの中で細木数子が食い物にした(とされている)島倉千代子も、おそらく「歌わずにはいられない」ところから始まった創造者である。

もちろん、芸術だって承認や市場から完全に自由ではない。
けれど、それでもなお、創作には「役に立つ」では説明できない部分が残る。

私はたぶん、そういうものにずっと惹かれていて、創造の力を信じている側だ。
意味もないけれど作らずにはいられないクリエイティビティが世界を豊かにするはずだと馬鹿みたいにずっと信じている。
そういう意味で、このドラマの中の細木数子は私にとってなんだか可哀想な人に見えて仕方がなかった。


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文章についてのあれこれ

最近仕事でちょっとした編集者的な役割をすることになって、それが楽しくて、楽しいと文章を摂取したくなって本を読んで、それがまた楽しくて、という幸せな連鎖を生んでいる。

編集者的な役割なので、自分以外の人に依頼した文章(エッセイ的なもの)を読み、其れに対して少し要望を出す。実はそういうのをすること自体初めてで、「私にできるのか?」と思っていた。でも、初めて依頼した人の文章があがってきた時、「この作品にはここが足りない、ここをもう少しだけくわしく書いた方がいい」というのが手に取るようにわかった。誰かに教えられたわけではないのに、わかった。

そして、前述した書き手とは別の、もうひとりに頼んだ文章があがってきた時は、「これは直さない方がいい、何も手を加えない方がいい」というのもわかった。それはものすごくはっきりとした感覚だった。

面白いのは、普段から文章を書き慣れているのは前者で、後者はふだん文章をあまり書かない人だということ。文章のつむぎ方の上手さ、という点では前者が勝っているのに、作品としてみた時の焦点の合い方というのは明らかに後者の方が優れていた。それはまるで、視力検査の時に見る、機械の中の気球にぴったり焦点が合うように。でもそれを感じとれるのも、それなりに私が自分の中に判断材料を持っているからなのだと思う。それはこれまで読んできた本から得た養分のおかげに他ならない。

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文章といえば、最近面白い会話をした。同僚に「活字が好き」「雑誌が好き」という人がいたので、「なぜ活字が好きなの?」と聞いてみた。

その人の答えはこうだった。「小さい時海外に住んでいて、時々読める日本の雑誌の情報がすごく好きだった。私にとって雑誌は、帰国して日本人の友だちができた時話のネタに困らないためのツールでもあったの。日本に帰ったらこの話をしよう、あの話をしようって思っていた」

私にはその返答がけっこう驚きだった。私にとって文章とは、主に文体、そして物語を味わうためのものだったからだ。それは知識の吸収ではなく、自分の感性の答え合わせに近い。言ってしまえば同僚にとっては文章は生きていくために必要なもの、私にとって文章は生きていくために必須ではないけれど日々を豊かにするためにのもの、なのだ。

ひとくちに活字が好きといってもこのふたつには大きな違いがあることを知った。

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自分がなぜ文章(主に小説やエッセイ)が好きなのか、いまだによくわからない。親が熱心な本好きというわけでもない。だけど昔から私は本を読むのが好きだった。本を読めばそこに私と同じようなことを考えている人がいて安心できるのだ。そしてこの文章も、私と同じようなことを考えている人が、「それって私じゃん」と思う、ただそれだけのために書いているのだと思う。

穏やかで衝撃な

久しぶりに、いい出会いがあった。恋愛とかビジネスとかではなく、ちゃんと感性が似てるなって思える人たちとの。私が無理をしてないことが、なによりもの証拠だった。

とあるカフェのテラスで話して、そこは穏やかなのに、こんなに自然な会話があるのか、と衝撃を受けた。穏やかなのに、衝撃って、すごい。

言葉で書くと野暮になってしまいそうな気がするので、それだけここに書いておきます。

大げさだけど、生きててよかった。