あの、私、この前スベりまして。どういう感じにスベったかといいますと、まあ職場の飲み会の二次会でカラオケに行ったんですけど、そこでまあ「歌え」みたいな雰囲気になったので、中島みゆきの歌を歌ったわけですよ。まあ「歌うやつは笑い取れ」みたいな雰囲気だったので、ちょっと中島みゆきのモノマネをしつつ歌ったわけですよ。自分ではなかなかのクオリティだと思って歌ったわけですよ。でもその「なかなかのクオリティ」がかなり突っ込みづらい感じだったのかもしれません。歌の1番はお愛想で合いの手や手拍子を貰えますよ。でもね、2番になるともう皆さん入れる合いの手がなくなってきましてね、中島みゆきの歌だからそんな盛り上がる場面もなくてね、そりゃあもう2番が長いのなんのって。早く終わってくれよ。とずっと願っていました。私は空と君とのあいだに挟まれて押しつぶされて消えてなくなりたいよ。みたいな心境になりました。
その後、三次会では同僚が歌った他の曲について盛り上がり、私の中島みゆきはなかったものとして取り扱われておりました。少しほっとするのと同時に、私は三次会の間もずっと空と君とのあいだに挟まれて押しつぶされて消えてなくなりたいと思っておりました。そして顔では同僚の話に笑いながら、「あ、私スベったんだわ」とずっとずっと恥ずかしくてたまらない気持ちでした。おかげでどんなに酒を飲んでもまったく酔わなかったんだぜ。
芸人さんてすげえよ。こんな気持ちを何千、何万回と繰り返して、それでもお客さんを笑わせようと頑張るなんて、とてもじゃないけど出来ない。本当にすごいと思う。
そんな感じでお笑い芸人さんへの尊敬が増す個人的なスベり体験だったのだが、一方でなぜこんな失敗をしてしまったのかと心底後悔し、自分を責めた。自分の馬鹿。馬鹿野郎。
そしてこんな風にも思った。こんなに自分を責めるのは、スベる、ということに対しての私の恐怖がなかなかのものであるんだなぁ、と。
私は今20代なので、それより上の年代の方たちに聞いてみたくもあるのだが、世の中って昔からこんなに笑いをとることやスベることに対してシビアだったのだろうか?
大勢でのカラオケでは笑いをとる方向にしむけられて、話題の最後にはオチを求められる。言葉を噛むことは許されず、誰かのボケにはツッコミをしないといけない。もっと酷いと「天丼」みたいな高等な芸を要求される。
私の生活の中ではそのようなことが日常的に行われ、そしてそれをそつなくこなせる人が「面白い」と言われる。果ては「出来るやつ」と言われることもある。
これは由々しき問題だ。言うなれば、「日本全国お笑い芸人化現象」だ。しかも、この日本中に溢れるお笑い芸人(=普通の人)たちには、本物のお笑い芸人さんにあるだろう、「自分が人を笑わせる」という根幹がない。だから他人の笑いに変にシビアなのである。言うなれば、お笑い芸人とお笑いの視聴者、両方の性質を中途半端に持ち合わせているのである。
普段は気づかないようにしていても、上記のような「疑似お笑い芸人」的やりとりに時々すごく疲れる時がある。疲れはやがて怒りに変わる。なんでお笑い芸人でもないのにそんなことせにゃならんのか。話にオチがなくて何が悪い。オチのない話に面白みを見出そうとする能力を放棄したお前の方が面白くないわ。あほんだら。と、もはや誰に向けているのかわからないのだが、怒りは私の中に蓄積されていく。そしてその怒りをどこに向けていいのかわからず、また人知れずスベることを恐れる。疲れ→怒り→恐れのスペイラル。それはそれは切実な、でも心底くだらないスパイラルである。切実だけどくだらないって矛盾してるけど、本当にそうなんだからしょうがない。
ちなみに、この記事にも特にオチはない。私が普段思っている「日本全国お笑い芸人化現象」に対する恐怖をただ垂れ流すだけである。だからブログは楽しいですね。解決策も見つからないまま、また私は明日から「疑似お笑い芸人」的やりとりに飲み込まれ、時々スベり、空と君とのあいだに押しつぶされて生きていく。嗚呼。
今私は、「日本という国には何が足りないと思いますか?」という質問をされたならば、こう答えるだろう。「勇気が不足している」と。オチのない話をする勇気が、ツッコミをしない勇気が、笑いをとらない勇気が、不足していると。