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それから

ちょいと読んでかない?

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http://ijimerarekko.hatenablog.jp/
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最良の距離ーー「海街diary」

映画

海街diary

海街diary

あらすじ(「ぴあ映画生活」より引用)
鎌倉で暮らす三姉妹、幸、佳乃、千佳の元に、15年前家を出ていったきり一度も会っていなかった父の訃報が届く。葬儀のため山形に向かった3人はそこで異母妹すずと初めて会う。身寄りのなくなったすずに、長女の幸は鎌倉で4人で一緒に暮らそうと提案する。

今更だけど映画「海街diary」を見た。とてもとても、良かった。奇跡のような映画だった。一言で言うなら、これは、自分の「家」を見つける物語だと思った。

***

去年から今年にかけての年末年始、私は九州の実家に四日間ほど帰省していた。実家は、海こそ見えないものの、この「海街diary」で四姉妹が住んでいるような古くて大きな家で、色々な場所にがたがきているけれど畳に寝転がると安心出来るような、そんな家だ。「キッチン」じゃなくて「台所」で、「トイレ」じゃなくて「お手洗い」。立て付けの悪い天袋の中に、何かこの世のものじゃない生き物が潜んでいそうな。そんな家。
というと、なんだかとても居心地が良い家のように聞こえるかもしれないけれど、実は私は、この家にずっといるとしんどくなってくる。年にたった一回の帰省なのに。たった四日間の滞在なのに。家族と仲が悪いわけじゃないのに。四日目を過ぎると、早く首都圏にある一人暮らしのマンションに戻りたくなる。そして、滞在している時はぎこちなかった家族との仲も、マンションに戻った途端良好になる。メールで、素直に感謝の言葉を送ったりなんかして。すごく、良い関係になる。

そんなことを繰り返すたびに、人と人との間には適切な距離があるんだなあと思う。たとえ血の繋がった両親やきょうだいでも。物理的に離れていた方が良好な関係を保てる場合があるのだ。
海街diary」で言うなら、大竹しのぶ演じる母と綾瀬はるか演じる長女・幸の関係がそれに当たると思った。幸は母が家を出て行ったことに憤りを感じながらも、今は自分が家を守り続けていくことを大切に思っている。母は遠く離れた土地で暮らしている。頻繁に顔を合わせるわけではないようだ。だがきっと、この母娘にとっては、今のこの物理的距離が良い関係をもたらしているのだと想像がつく。会うたびに衝突をする。でも、別れる時にはお互いの幸せを願っていることを実感する。それは普段の物理的距離があってこそ。その適切な距離のなんと尊いことだろうか。駅の改札前で別れる二人を見てそう思った。

一方で、これまた家を出て行った父の残した腹違いの妹・すずにとっては、三人の姉と同じ屋根の下で暮らすことが最良の距離となったことがわかる。最初は遠慮がちだったすずが、だんだんと心を開いていく様がとても微笑ましかった。
「お姉ちゃんたちの前では、お父さんのこと話しにくいんだよね」と言っていたすずが、佳乃から母(すずの母ではない)の話を聞き、千佳から「いつかお父さんの話聞かせてね」と言われ、最後に「ここに居ていいのよ」と幸から抱きしめられる。この映画はすずが「家」ーー物理的であると同時に精神的なーーを見つけるまでの物語なのだ。そのことが、しみじみと伝わってきてなんだか随所で泣きそうになってしまった。

それから、四女・すずを演じた広瀬すず(この名前がもう奇跡)が奇跡だった。演技が上手いとかじゃなくて、この時期、この瞬間の広瀬すずを映画として記録できたのは凄いことだ。子供でも大人でもない、人生において本当に短く儚い一番美しいとも言える時期の広瀬すずを「海街diary」という素敵な物語の中に焼き付けた、それだけで賞賛に値すると思った。リュック・ベッソンが「レオン」においてナタリー・ポートマンを映画として残したのと同じくらい。もしもあと一年撮影時期が遅くなっていたら、この映画の魅力は三分の一ほど減っていたと言っても過言じゃない。特に桜並木の中を自転車で疾走するシーンは息を飲む美しさ。髪にひとひらの桜が落ちてそのあと飛んでいく画なんて奇跡としか言いようがない!

私もいつの日か、すずみたいに心の家を見つけたい。血の繋がりはなくとも、誰かがいて、私が帰ると炬燵の中から「おかえり」と言ってくれるような。見つかるかな。見つかるといいな。いや、見つけると思う。「海街diary」は、そんな風に不思議と穏やかな前向きさをくれる素晴らしい映画だった。

骨盤と人生

雑記

最近、ダイエットをして約8kg体重が減った。これくらい体重が減ると、さすがに自分でも身体が薄くなったと感じる。顔とか、お腹とかはもちろんだが、意外にもいちばん痩せたことを実感する部位は、骨盤である。違う、骨盤は痩せてないな、骨盤の周りの肉が減ったから、仰向けに寝た時の骨盤の存在感がすごい。あれ、お前居たの? みたいな感じで、がっつりとそこに骨盤と言う名の骨があることがわかる。君の名は、骨盤。

そう言えば昔、知り合いが、拒食症の女の子と付き合った時の話をしていた。彼女と付き合っていた時、何が大変だったかって、セックスの時に彼女の骨盤に自分の身体が当たると物凄く痛いってことだよ、と話していた。へえ、と思った記憶があるが、だから何という話でもある。今書いていても。そんなことよりもっと大変なことがあったんじゃないかと思うんだが、その知り合いはシリアスになりたくなくてそんな話を披露したのだろうか。飲みの席で。みんなを面白い気分にするために? それにしちゃなんか悪趣味だし知識としても使いようがないし、なんか変に頭の片隅にお風呂の黒カビみたいに残る話だな。

私も、もう会うこともない男性から、「昔付き合ってた女がさぁ」と言った具合にネタにされているんだろうなと思うと、なんだが不思議な心持ちになる。私の亡霊みたいなものが、どこぞの知らない居酒屋の空間を、煙草の煙のようにたゆたっている感覚になる。
そんな風に、みんな誰かの亡霊なんだ。知らないところで。それが生きるってことなんだ。ただそれだけで、この話にはなんの教訓もない。意味のない話をする。その点では、私はあの拒食症の女の子と付き合っていた知り合いと同じようなものだ。

拒食症の女の子は、今、どうしているんだろうか。会ったこともないのに、そう思う。
元気でいるといい。骨盤が適度に脂肪に隠れるほどに回復して、元気でいてほしい。そうでなくても、生きていてほしい。一度も会ったことがないのに、そう思う。それはたぶん、私が人間で、今日も生きているから。
人生って、Facebookの「基本データ」欄みたいに、どこで生まれたとか、どこの学校を出てどこに勤めているかとか、そういう情報だけで出来上がっているわけじゃない。こんな風に、骨盤から何かを思い出したり、会ったこともない人の幸せを願ったり、そんな、訳のわからない、繋がっているんだか繋がってないんだかわからない記憶や想いの積み重ねなんだ。他の人にはどうだかわからないけれど、私にはそれが、とても愛しくて、かけがえのないものなんだ。

フェイクワールドワンダーランド

フェイクワールドワンダーランド

記事とは何にも関係ないけど、書きながら聴いていたアルバム。とても良かった。
何年か経って、このアルバムを聴いた時、こんな文章を書いたことをふっと思い出すかもしれない。そういう関係ないようで関係ある記憶が呼び覚まされるのが、今からほんのり楽しみだ。生きる楽しみ方がそんなんでもいいじゃないかと最近思う。

絶対に死にたいと歌わないバンドーー映画「オアシス:スーパーソニック」

映画 音楽

oasis-supersonic.jp

あらすじ(「ぴあ映画生活」より引用)
1991年に結成され、わずか数年後にロック界の頂点へと上り詰めたオアシス。ギャラガー兄弟への新たなインタビュー、他のバンドメンバーや関係者の証言、名曲の数々に彩られたライブ映像などの豊富なフッテージにより、伝説的なバンドの真実を今に伝える。




Twitterでほとんど言いたいことは言ってしまっているのだけれど。12/25@恵比寿ガーデンシネマ「オアシス:スーパーソニック」観てきた。恵比寿という大人のオシャンティなデートスポットのためか、それとも12月25日という日付のためか、座席には空席が目立った。開場前、映画館の窓から通りを歩く数多のカップルが見え、「ファッ×ン、早く家に帰ってセッ×スでもして私の老後の年金払う子供を生産しやがれクソ野郎」と頭の中で暴言を吐いていたけれど、鑑賞後はそんなことどうでも良くなるくらい端的に言ってクソ素晴らしい映画だった。

このブログでも何回か書いたけれど、私にとってオアシスとは本当に特別なバンドだ。しかしリアルタイムでその熱狂を体験したわけではない。私は何かに熱狂するという行為においてリアルタイムかどうかは重要ではないと思っていて、しかも音楽というジャンルはあらゆるエンターテインメントの中でもリアルタイム性を凌駕する性質が強い。だからこそ、私はオアシスに熱狂する。そしてリアムはビートルズに熱狂する。熱狂の連鎖。リアルタイムをブチ壊せ。
なんだけど、この映画を見たら、リアルタイムで90年代のこのオアシスの熱狂を目撃・体感した人が少し羨ましくなる。「リアム超イケメン!」って言ってるティーンエイジャーらしき女の子に、自分もなりたいよって思う。それほど、この映画は時代を駆け抜けている再現力が高かったのだろう。人々がオアシスという労働者階級のスターに心惹かれていく様子が手に取るようにわかった。

基本的に、ギャラガー兄弟っていうのは、「良い人」じゃない。映画でも語られる通り、いくつもの施設を出禁になっているし、ドラッグをやりまくっているし、他人への悪口も凄まじい。自信を持って彼らについて「良い」と言えるのは、彼らの音楽がアホみたいに素晴らしいってことだけなのだ。
私の敬愛する番組「久保みねヒャダこじらせナイト」で漫画家の久保ミツロウさんがこんなことを言っていたのを思い出す。
「ものすごい悪人には、それを超えるほどの『帳消し力』がある。この人悪い人だけど、この人のためなら何かやってあげようと思わせてしまう何かを持っている」
ギャラガー兄弟ってまさにコレじゃないか。世間的に優等生とは言えなくても、そんなこと関係ないんじゃないかと思えてしまうマジック。数々の悪事を赦してしまうほどの音楽の素晴らしさ。それこそがオアシスの本質で、多くの人間を魅了するパワーの源なのだ。

しかし彼らは、ただ単に自分の魅力を振りまいているだけじゃない。彼らについてもう一つ断言できること。それは、彼らが絶対に「死にたい」と歌わないバンドだってことだ。
名曲「Live Forever」が象徴するように、彼らは基本的にみっともなくても上手くいかない人生でも、生きることを否定しない。ポップソングがこの世で鳴り響き始めて以降、「死にたい」(またはそれに似た感情)を歌ったバンドは数知れず。それはそれで聴く者に寄り添う薬の役目を果たしてはいる。けれど、オアシスはその道を選ばない。かつてリアムが子供を残して自殺したカート・コバーンを否定したように、自ら死を選ぶことを良しとしない。永遠に生きるんだ。クソみたいにつまらないこの世界でも。そしてそばに、素晴らしい音楽があれば良い。その姿勢のなんと潔く、なんと眩しいことか。私たちがオアシスを求めるのは、その強く揺るぎない煌めきの中に自分もいたいと思うからだ。生きることを肯定する煌めきの中に。

と、雑にまとめるとオアシス最高! ちゅうことなんですが、他に良かったところをつらつらと(完全前情報なしで見たい人は飛ばしてね)
ドキュメンタリー映画ゆえ、関連人物のインタビューが中心になっているんだけど、誰が喋っているか最後まで逐一テロップが出るところが良かった。あれ、今誰が語ってる? どの辺の話をしてる? というストレスがほぼなくて、それってドキュメンタリーにおいては凄く重要だと思う。それから、映画で語るべき部分をある期間に絞った点も良い。あとCGが可愛い。トニーが不憫(知ってた)。
印象的だった言葉は、「自分たちは、インターネットが生まれる前の世界の最後のムーヴメントだった」(大体こんな感じ。)byノエル。かなり冷静に自分たちを捉えているのが意外だったのと、確かにもうこんな風に世界中の多くの人が同じひとつのものに熱狂する現象はないんだろうな、と感じた。それは少し、切ない。インターネットの登場以降、より個人の好きなものが細分化されたこの世界が今後どのようになるのか。オアシスの体現した生きることを肯定する煌めきは誰が、何が担うのか。興味がある。

長くなってきて、そろそろ彼らに「話が長いんだよクソ野郎」と言われそうな分量になってきたので、ここらで終わろう。
このクソみたいにひどい世界で生きるやつら、今すぐ映画館に急げ! どうしようもなくアホで、どうしようもなく最高な奴らと音楽がそこで待ってる。
cocolukas1225.hatenablog.com
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