それから

ちょいと読んでかない?

救いたいんだよ

なぜだか猛烈に1年の内に3日くらいリピートしたくなる曲がある。
andymoriの「1984」。子どもの頃見てた夕方の景色が目の前にぐわぁーっと広がっていくのがたまらない。作詞・作曲をした小山田壮平氏とはもちろん会ったことも喋ったこともない。それなのに、そういう他人が自分の記憶の中の景色を瞬時に蘇らせるって、普通に、すごくないか。すごいよな。
という感動もあって猛烈にこの曲およびandymoriの楽曲を聴きたくなる時期が時々あるのだけど、それとは別に今回彼らの曲を聴きたくなった理由には、最近、とうとう会社に来なくなってしまった先輩と小山田壮平氏の姿が少しダブってしまったからかもしれない。

ファンファーレと熱狂

ファンファーレと熱狂

  • アーティスト:andymori
  • 出版社/メーカー: Youth Records
  • 発売日: 2010/02/03
  • メディア: CD

その先輩はスーパーコンピュータですか、ってくらい頭の回転が早く、仕事が出来る人で、かといって威圧的ではなく、言うべきことはちゃんというけどそこにはちゃんとした理由と愛情がある、という人だ。その人から「右」と言われて右へ進むと結果が良好になることが多い。だから迷った時にその人に「どっちに行けばいいですか?」と訊ねる人は沢山居た。そして「右じゃないんじゃないですか?」という意見を述べたとしても、そこに意味があればちゃんと進路を変更することも出来る人だった。

だけど、たまに突然会社に来なくなることがあった。んで、出社したかと思うと体に傷をこさえていたりする(猫かいな)。酒を飲んで、記憶を失くして、知らない場所で目覚めることもしょっちゅうあったようだ。
そしてとうとう最近、1か月の内会社に姿を見せることの方が少なくなってしまった。
最初の方はすごくびっくりしたけれど、人は慣れてしまうもので。それでも地球は回っている、もとい、それでも職場は回っている。というか、回っていなきゃその方が問題のある職場と言えるだろう。

色々理由を考えることは出来る。私だって前の職場にいた時は無断欠勤こそしないけれど死ぬほど仕事が嫌だと思ったことは何回もあった。もしかしたら、その人にとって、周りの人たち(自分も含む)の、「どっちに行けばいいですか?」って問いが重圧だったのかもしれない。そんな風には見えなかったけれど、他人の心の中のことなんてわからない。
とは言えそんな推測には何の意味もない。本当のところは本人にしかわからない。

ただ、いなくなんなよ、と思う。それは無責任だとかそういうことじゃなくて、自分にはあなたが持ってる何かわからん重い荷物を軽く出来ないかどうか教えてくれ、ってことなんだ。別に全面的に救えるだとか傲慢なこと思っちゃいない。仕事仲間である以上プライベートなことまで救えるわきゃない。救おうと思わない。でももしかしたら、何か出来ることがあるかもしれないのに。と、そんなこと思うのももしかしたら「私にはこの人は救えない」って結論を出したいが故かもしれないけれど。うん、多分そうだよ、ごめんなさい、でもそうじゃない自分もいるよ、もうわけわかんねえ。

小山田壮平氏がもし自分の近くにいたら、今と同じような気持ちになるかもしれない。勝手にそんなことを思った。だから私は世が明けるまでandymoriを聴き続ける。今までの人生で、自分が救えなかった人のことを思い出しながら。そして多分、自分も誰かをこんな気持ちにさせているんだろうな。人と人の間の悲しみって多分そういうことだ。

先輩、別の先輩から「◯◯さんが君のこと褒めてたよ」って言われた時、すんとした顔で「はあ、そうですか」って答えたけど、心では飛び上がるほど嬉しかったです。

素晴らしきかな、悩める人生

十七歳の地図
十七歳の地図
posted with amazlet at 15.05.20
尾崎豊
ソニー・ミュージックレコーズ (1991-05-15)
売り上げランキング: 1,594
この前、実家に住む歳の離れた姉に、メールでこんな質問をした。
尾崎豊の『僕が僕であるために』の『僕』は何に勝ち続けなきゃならないの?」、と。
姉はすぐにこう返信してきた。
「自分との闘いに、だよ」

ブログを読んでくださった方から、時々、
「凛とした文章ですね」とか、「芯があって美しい言葉を書かれますね」とか褒めていただくことがある。
それ自体はとても嬉しいのだけれど、でも、私が思っている自分は全然そんなことはなくて、もうずっと前から上手く固まらないプリンの上に立っているかのようにぐらぐらとした不安定な人間だ。それは「傷つけられたことよりも、傷つけたことをーー私のいじめの話 - それから」で書いたように、10代の早い内にいじめを受けたからかもしれないし、「帰る家を見つける才能ーー「家」髭(HiGE) - それから」で綴ったように、どうも自分の居場所を見つけるのが不得手だと感じているからかもしれないし、そうではなくて、もっと根本的で先天的な気質としか言えないものから来ているのかもしれない。なぜ自分は不安定なのか、その理由をはっきりと言葉にすることは出来ない。

私は、凛としているとか、芯があると評される人というのは、「他人とではなく自分と闘っている」人だと思っている。揺るぎない、けれどもしなやかなアイデンティティーを持ち、理不尽にそれを歪ませようとしてくる周りに対して屈さない人。折れそうになる弱い自分と闘える人。でも私は、そうじゃないのだ。そうありたいけど、そうじゃない。なぜなら私はずっと自分自身ではなく他人と闘ってきた。

普通以上のレベルの人間になりたい。というのが私が物心ついた時から一貫して心に抱いている人生の課題である。そもそも普通って何なのさ? って自分で言っといて自分でもわからないけれど、とにかく自分の中にスクールカーストならぬ世の中カーストみたいなもんがあって、そのカースト制度の真ん中より上には居たい、せめて真ん中にはいかなきゃって思いながら生きてきた。こう書くとどことなく自分自身を高める努力をしている=自分と闘っているように思えるが、それは違う。なぜなら、高めるために比較する対象が常に「他人」だからだ。
他人より上の方に行くこと。この「他人」に具体的な人物はいない。「上の方」にはっきりとした定義があるわけではない。なのに私のアイデンティティーは「他人」や「上の方」に左右される。上手く固まらないプリンの上に立って翻弄される人間。たまに足を踏み外してどろどろのカスタードの沼に落ち、もがいている人間。それが私だと思っている。

だから凛としている、芯がある、と言われるたびに違和感があった。私ほど不安定な人間はいないじゃないかと。

ただ、最近になって気づいたのは、そういうぐらぐらとした場所でもがき続けていることこそが自分のアイデンティティーなんじゃないか、ということだ。悩まなければ自分じゃない。悩まない自分なんて糞食らえ。「そんなに悩んでばっかりで馬鹿みたい」なんて言われた日にゃ多分こう言い返したくなる。「あらゆる芸術は悩みと孤独から生まれるんだぜ」

そう思って初めて、私はやっと自分が他人ではなく自分と闘っているような気がした。悩むということを私から取り上げようとする人とは、私は多分上手くいかない。それは、アイデンティティーの崩壊を意味するからだ。そして私は悩むことが私の文章を産み落とし、産み落とされた文章が誰かの心の泉に小石を優しく投げ込んでくれると信じている。

という文章を紡ぎながらも、「こんなややこしいこと考えてるから好きになってくれる人がいないんじゃないか」などと悩んでいる。日本よ、これが私だ。

素晴らしきかな、悩める人生。

姉と私のことーー【ブロガー連動企画】本をプレゼントした/されたエピソードについて

ふくろくんさん (id:Chachapo)がこんな記事を書かれていたので。

なんだか面白そうだな、と思い、私のエピソードを書いてみようと思います。

1.本の紹介

君はおりこう みんな知らないけど (角川文庫)
銀色 夏生
角川書店
売り上げランキング: 153,492

もらった本は、銀色夏生さんの「君はおりこう みんな知らないけど」。写真と詩の本です。
詩というよりも呟きや囁き、といった言葉の方が合いそうな、短いけれどため息が出るほど共感してしまう言葉の数々が詰まっている。特に表題になっている「君はおりこう みんな知らないけど」の文章の響きにはそこはかとない淋しさが溢れていて、何度読み返しても涙が出そうになる。

君はおりこう みんな知らないけど
君はおりこう みんな知らないだけ

君はおりこう 僕も知らないけど

「おりこう」という柔らかい言葉の感触と、「みんな知らないけど」という冷んやりとした現実の影。その対比に胸がきゅっと締め付けられる。そして、最後の「僕も知らないけど」。ここに「君」の深い孤独を感じ取って、なんだか泣きそうになってしまう。そんな、素敵な、素敵な詩。

2.本をくれた人との関係

この本を私にくれたのは、私のたった一人のきょうだいである6歳年上の姉だ。私は姉には随分と迷惑をかけたと自覚している。幼い頃から姉に理由のない対抗心を燃やしていた私は、姉に対して何度もきつい態度をとった。ちっぽけな自分のプライドを保つために、姉を見下すことが多々あった。
にも関わらず、姉は私がいじめられて部屋で泣いている時にその扉を開けて声をかけてくれたし、両親にかわって専門学校の学費を半分出してくれた。なぜ姉がそんなことを出来たのか、未だに私には不思議でしようがない。本当にわからない。けれどたとえ私が「どうして?」と聞いたとしても、姉は笑って「さあ、なんでだろうね?」と言うだろう。姉は、そういう人なのだ。でも、そんな優しい姉も、人知れず淋しさを感じていたことが、今になって少しずつわかるようになってきた。

以前、なんの経緯でそういう話になったのかは忘れてしまったけれど、姉と幼い頃の通信簿について話したことがあった。
「通信簿にね、親が子供の長所と短所を書く欄があったでしょ? ある時ね、お父さんとお母さんがそれを書こうとしているところに出くわしたことがあったの」
と、姉は言った。
「お父さんとお母さんはね、私について、『あの子の長所ってなんだっけ?』ってしばらく悩んでたの。あんた(私)の分を書くときはね、好奇心旺盛だとか頑張り屋だとかすらすら長所が出てくるのにね、私の時はなかなか出てこないの。それが、少し悲しかった」
姉はさして悲しそうにでもなく、そう言ったような気がする。でも、今ならわかる。姉はその時、本当に、悲しかったんだと思う。

「君はおりこう みんな知らないけど」
この本を姉その人からプレゼントされた時、私は姉の孤独に気づいたような気がした。

3.本をくれた理由

確か、私が高校生の時、誕生日プレゼントとして姉からもらったと記憶している。もしかしたらこの本は、姉から私へのサインだったのかもしれない。姉は絶対にそんなことは言わないだろうけれど。きっとただ笑って、「どうだろうね?」というだろうけれど。私はそんな姉が大好きだし、世界で一番、信頼している。

君はおりこう 僕は知っている。

って言ったら、あなたは笑ってくれるだろうか。