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何かに縛られて生きるーー「ノマドランド」

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映画「ノマドランド」を観た。昨年、ベネチア国際映画祭の金獅子賞を受賞し、さらには本年度のアカデミー作品賞・監督賞・主演女優賞の三冠を達成した作品だ。
リーマンショックにより住む家と夫を失った高齢女性・ファーンが、キャンピングカーに乗って車上生活を送る様を描いたロードームービー。

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私の家は兼業農家で、子どもの頃から旅行というものをしない家庭だった。作物の世話があるので、長期間家を空けることができないのだ。週末になれば祖父と父は田畑で農作業をし、母は家で焼き物の内職をしていた。
だからだろうか、大人になった今でも私はあまり旅行や外出を好まない。どこか新しい場所に出かけることを億劫だと思う節がある。家についてもそれは同じで、今のマンションは住み始めてもう6年以上になる。買い物をするのは大体決まった店、頼むメニューも同じもの、会う人も決まっている。“ノマド”とは真逆の生活である。


でもなぜだろう、私はこの映画を見て主人公の女性ファーンにとても共感した。国籍も、年齢も、生活様式もまったく違うファーンという女性に、自分を重ね合わせていた。
たぶん、私たちの共通点は“孤独”であるということだ。
屋根の下で暮らすか暮らさないかに関わらず、私もファーンも、たぶん愛というものに飢え、それを畏怖している。


昔付き合っていた人にこう言われたことがあった(前に何かの記事でも書いたかもしれない)、「幸せになろうとすると、自らそれを壊そうとする癖があるよね」と。それを訊いた時私は、何を知ったような口を、と思ったけれど、あながち間違ってはいないのかもしれないと今は思う。そしてそれは、ファーンが途中、仲良くなった男性から、「一緒に屋根の下で住まないか」と言われた時の心情と似ているような気がした。彼女が彼に別れの言葉も告げずに翌朝急いで自分のキャンピングカーを走らせるシーンは、ファーンの愛への向き合い方を如実に表していると思った。


この作品のすごいところは、“ノマド”という行動様式の形を鮮やかに浮かび上がらせながらも、それだけにとどまらない孤独や愛の本質を突いているところだ。だからこそ、国籍も年齢もまったく違う、むしろノマドとはいちばん遠いところにいる私に刺さったのだと断言できる。ファーンは自由に見えているようで、本当は夫との思い出に縛られていた。それは形は違えど、過去の思い出によってこの世界に対して生きにくさを感じている私とあまり違わない気がしたのだ。


ラストシーンで彼女は思い出から解き放たれることが出来たのだろうか。私にはわからなかった。劇中にこんな言葉がある。

「『さよなら』がない。だからノマドがいい」

人生に自ら「さよなら」を言うことはできない。だから私たちはこれからもこの人生を放浪していくしかないのだ。