それから

ちょいと読んでかない?

折り畳み傘と理解の源

 久しぶりに映画館で映画を見た。見る前は集中力が続くか、眠気が来ないか少し不安だったが、107分の間多いに楽しめた。映画館という箱には人を没入させる魔法がかかっているのかもしれない。ミニシアターの一番後ろの席には清潔な空気が流れていた。
 映画館を出ると渋谷の街には雨が降っていた。一緒に映画に行った友人が傘を持っていなかったので私の傘で相合い傘をして夕食の店を探す。友人はオーストラリア人で、私は、「オーストラリア人はあまり傘を持ち歩かないの?」と聞きたくなったが何となくやめておいた。行きたかったハンバーガー屋が閉まっていたので近場の韓国料理店に入る。

 焼肉とビビンバとチヂミを食べながら映画の話をしていると、作品中の台詞の話になった。彼はとても台詞が良かったと言った。私ももちろんそれには同意したが、あなたが感じているほどにはたぶんそれを感じ取れていないだろうと話した。映画はオリジナルが英語で作られているものであり、私は日本語字幕の台詞を読んでいるからだ。やはり原語の細かいニュアンスなど完全には汲み取り切れていない部分があるに違いない。日本語以外の素晴らしい芸術作品に出会うと、その言語を理解できたらよかったのになと強く思う。理解の源とは言語だとも、思う。

 店を出るとまだ雨は降り続いていて、私たちは駅までの道、また相合い傘をしなければいけなかった。ただし、傘は折り畳み傘で小さいのに、彼は傘のコントロールが上手いのか、私と彼のどちらかが偏って濡れるということがなかった。
「オーストラリアって結構雨は降るの?」と今度訊いてみてもいいかもしれない。
 渋谷駅の地下道入り口で私たちは手を降って別れた。

ポリシー

 ふと思い出したことがあった。昔、転職する前、大きな組織で働いていた時、私にこう言ってきた取引先関係の人がいた。
「お金に困っているなら定期的にご飯に連れってってあげるよ」と。妻に先立たれた(おそらく)五十代の男性だった。
「お断りします。私のポリシーに反するので」と、二十代前半の私は答えた。
 するとその男性は、「若いのにしっかりしているね」とますます私を気に入った様子だった。私は別にしっかりしていたわけじゃない。返事の通り、自分のポリシーに反することをしたくないだけだったのだ。確かにその頃の私は今より貧乏だったが、好きでもない人にご飯を食べさせてもらうほど飢えていたわけではない。幸いそれ以上何か執着されるということもなく、まもなく私はその職場を去ることになる。

 またひとつ思い出したことがあった。二回目のデートで、カフェでテイクアウトした飲み物のカップを手に散歩していると、土砂降りの雨に見舞われたことがあった。彼は傘と空のカップを手にしているのが煩わしくなったらしく、カップを道端に放置しようとした。
「それはだめでしょう。そこはゴミ捨て場じゃないよ」と、三十代の私は注意した。
 すると彼は、仕方なさそうにカップを放置するのをやめた。私は別に特別環境に配慮した生活をしているわけじゃない。好きな人が、自分のポリシーに反することをしているのが許せなかったのだ。私たちはその直後別のできごとで意見の対立があり、あっさりと別れることになる。

 私はたぶん、わがままな人間だ。でも厄介なことに、この自分のポリシーを少し気に入っている。

床の色と前髪と天井

床の色を変えろ、と、村上春樹の「風の歌を聴け」のように言ってみる。最近、六畳一間の床の色を変えた。と言っても、賃貸なので「置くだけフロアタイル」なるものを敷き詰めただけである。だけであるが、冴えない茶色い床がホワイトオークの床になっただけで少し私の気分も明るくなった。床の色は絶大である。風の歌のように。

風の歌を聴け」を初めて読んだ時の衝撃を私は今でも鮮やかに思い出すことができる。それまで自分が読んでいた小説というものの概念を覆される思いがした。そういう体験は人生でそう何回もあるものじゃない。村上春樹の作品中でいちばん繰り返し読んだのは「ノルウェイの森」でも、いちばん印象に残っているのは「風の歌を聴け」で間違いない。

そんなことを考えながら、今日は美容院に行って前髪を切ってもらう。気さくな担当美容師の腕にはハサミのタトゥーが入っている。前髪を切ってもらうだけなのになんやかんや髪について相談する。視界が良好になって満足する。美容院から2km歩いて家まで帰る。床の明るくなった部屋で来週のデートの店の予約を入れる。デートの数だけが無数に増えていくのはどうしたものか。何かいい音楽を摂取したくてハンバート ハンバートの「天井」を聴く。この歌の中の主人公はとなりに一緒に寝る人物がいながらもどこか孤独感を抱えているのが切なくていい。眠れなくてじっと天井を見ている気持ち。横では健やかに他人が寝ている気持ち。私には主人公の気持ちがわかる。とても良く、わかる。