私が信じているもの――「沈黙-サイレンス-」
あらすじ(「ぴあ映画生活」より引用)
17世紀、江戸初期。日本で捕えられ棄教したとされる宣教師フェレイラを追い、激しいキリシタン弾圧下の長崎に潜入したロドリゴとガルペ。彼らは日本での想像を絶する光景に驚く。やがて彼らは、弾圧を逃れた“隠れキリシタン“と呼ばれる日本人と出会う。
(少しネタバレしています)
私はこの映画の舞台である長崎県で育った。実家は日本の典型的な無宗教に近い仏教だが、数年前に姉が結婚して義兄と同じキリスト教へ改宗し、クリスチャンネームを付けられた。両親がクリスチャンなので、自動的に幼い姪っ子もクリスチャンだ。
だからこの映画を見る直前は、見終わったら色々と思うことがあるだろうと予想していたし、実際すごい映画だと思ったからこうしてブログを書かずにはいられなくなっているのだけれど、結論から言うと自分が予想していた感情とは違う、予想外といっていいような感情が沸き起こった。
つまり、自分は自分が思っている以上に日本人なんだなあということだ。
劇中で、先に日本へやってきてキリスト教を布教していたフェレイラ(リーアム・ニーソン)がポルトガルから彼を探してやってきたロドリゴ神父(アンドリュー・ガーフィールド)にこう言うシーンがある。
「二十年間、私は布教してきた。知ったことはただこの国にはお前や私たちの宗教(キリスト教)は所詮、根をおろさぬということだけだ」
それに対してロドリゴは涙ながらに、違う、それは根が刈り取られたからだと反論するが、私にはそれがどこか滑稽に見えてしまった。
この映画のすごいところというのは、まさにこういうところだと私は思った。最初は、容赦無く弾圧されるロドリゴたち側が正義で、イコールキリスト教徒が正義に感じる。だけど途中からそれが疑わしく思えてくるのだ。
布教とは一種の洗脳であり、自分の考えを押し付けることと同義ではないのか? そしてキリストや主という(私にはこのあたりの違いもよくわからない)ひとつの者を崇める一神教を日本に根付かせようとする行為は本当に必要なことなのかと思えてくる。見ているものの心の中で、正義の転換が起こるのだ(少なくとも私の中では起こった)。
確かに、キリスト教の信仰は何も間違ったことではなく、隠れキリシタンたちへの弾圧は理不尽極まりない許されないものである。弾圧をする側は異国の宗教に不寛容だ。
では、ロドリゴたちはどうだろうか? ロドリゴたちも、不寛容とは言えないだろうか?
すさまじい拷問に耐える彼らをどうかもうこれ以上傷つけないで、と思いつつも、キリスト教こそが最も正しい教えだと思っているその姿が、私はなんだか好きになれなかった。嫌いというよりも、理解できず怖いという表現の方が正しいかもしれない。
それは言うなれば、地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教の信者たちを「怖い」と思うこととどこか近しい感情だった。盲目的に何かを信じている人を見るというのは、怖いのだ。
そしてそれが「それを棄てるくらいならば死んでも良い」というほどのものであるほど私は怖いと感じる。なぜなら私は、信仰よりも命の方が大事だと思うからだ。
自分は自分が思っている以上に日本人なんだという感情が沸き起こった原因はそれだった。自分には信仰する宗教はないのだと、改めて気づかされたのだ。
小さい頃、父親が良く言っていた言葉がある。
「どんな宗教も、始祖が本当に言いたいことはほとんど同じなんだよ」と。
それなのになぜ、異教徒間で争いは起こるのだろうか、不思議でたまらない。これが人間の限界なんだろうか。悲しいことである。
とにもかくにも、信仰とはなんなんだろうか? ということをぐるぐると考えさせられる映画だった。
だけどたぶん、私は結婚したいと思った相手がキリスト教徒だったとしても、姉のように軽やかに改宗はしないと思う。
私が信じているのは、自分だけかもしれない。