それから

ちょいと読んでかない?

素晴らしきかな、悩める人生

十七歳の地図
十七歳の地図
posted with amazlet at 15.05.20
尾崎豊
ソニー・ミュージックレコーズ (1991-05-15)
売り上げランキング: 1,594
この前、実家に住む歳の離れた姉に、メールでこんな質問をした。
尾崎豊の『僕が僕であるために』の『僕』は何に勝ち続けなきゃならないの?」、と。
姉はすぐにこう返信してきた。
「自分との闘いに、だよ」

ブログを読んでくださった方から、時々、
「凛とした文章ですね」とか、「芯があって美しい言葉を書かれますね」とか褒めていただくことがある。
それ自体はとても嬉しいのだけれど、でも、私が思っている自分は全然そんなことはなくて、もうずっと前から上手く固まらないプリンの上に立っているかのようにぐらぐらとした不安定な人間だ。それは「傷つけられたことよりも、傷つけたことをーー私のいじめの話 - それから」で書いたように、10代の早い内にいじめを受けたからかもしれないし、「帰る家を見つける才能ーー「家」髭(HiGE) - それから」で綴ったように、どうも自分の居場所を見つけるのが不得手だと感じているからかもしれないし、そうではなくて、もっと根本的で先天的な気質としか言えないものから来ているのかもしれない。なぜ自分は不安定なのか、その理由をはっきりと言葉にすることは出来ない。

私は、凛としているとか、芯があると評される人というのは、「他人とではなく自分と闘っている」人だと思っている。揺るぎない、けれどもしなやかなアイデンティティーを持ち、理不尽にそれを歪ませようとしてくる周りに対して屈さない人。折れそうになる弱い自分と闘える人。でも私は、そうじゃないのだ。そうありたいけど、そうじゃない。なぜなら私はずっと自分自身ではなく他人と闘ってきた。

普通以上のレベルの人間になりたい。というのが私が物心ついた時から一貫して心に抱いている人生の課題である。そもそも普通って何なのさ? って自分で言っといて自分でもわからないけれど、とにかく自分の中にスクールカーストならぬ世の中カーストみたいなもんがあって、そのカースト制度の真ん中より上には居たい、せめて真ん中にはいかなきゃって思いながら生きてきた。こう書くとどことなく自分自身を高める努力をしている=自分と闘っているように思えるが、それは違う。なぜなら、高めるために比較する対象が常に「他人」だからだ。
他人より上の方に行くこと。この「他人」に具体的な人物はいない。「上の方」にはっきりとした定義があるわけではない。なのに私のアイデンティティーは「他人」や「上の方」に左右される。上手く固まらないプリンの上に立って翻弄される人間。たまに足を踏み外してどろどろのカスタードの沼に落ち、もがいている人間。それが私だと思っている。

だから凛としている、芯がある、と言われるたびに違和感があった。私ほど不安定な人間はいないじゃないかと。

ただ、最近になって気づいたのは、そういうぐらぐらとした場所でもがき続けていることこそが自分のアイデンティティーなんじゃないか、ということだ。悩まなければ自分じゃない。悩まない自分なんて糞食らえ。「そんなに悩んでばっかりで馬鹿みたい」なんて言われた日にゃ多分こう言い返したくなる。「あらゆる芸術は悩みと孤独から生まれるんだぜ」

そう思って初めて、私はやっと自分が他人ではなく自分と闘っているような気がした。悩むということを私から取り上げようとする人とは、私は多分上手くいかない。それは、アイデンティティーの崩壊を意味するからだ。そして私は悩むことが私の文章を産み落とし、産み落とされた文章が誰かの心の泉に小石を優しく投げ込んでくれると信じている。

という文章を紡ぎながらも、「こんなややこしいこと考えてるから好きになってくれる人がいないんじゃないか」などと悩んでいる。日本よ、これが私だ。

素晴らしきかな、悩める人生。