それから

ちょいと読んでかない?

被害者と加害者

Amazonプライムで「塀の中の少年たち -なぜ彼らは殺人を犯したのか-」というドキュメンタリーを見た。
www.amazon.co.jp

あらすじ(「Amazonプライム」より引用)
アメリカでは、少年犯罪者ながら終身刑を言い渡された者が2000人を超える。2012年、最高裁によりこの判決が違憲とされた今、10代という若さでおぞましい凶悪犯罪に手を染めた幼き犯罪者たちは、どう裁かれるべきなのか?塀の中の彼らに未来は無いのか?究極の議論が開始する。

シリーズの構成としては、ほぼ1話完結型で1話ごとにひとつの事件を取り扱い、最終的に当時未成年だった加害者側が釈放される判決を受けられるのか? という結末に向かってストーリーが進んでいく。その過程がなんともスリリングで時に胸が締めつけられる。特に遺族側のターンになると、犯人が収容されてーーつまり自分の身内を殺害されて二十年以上経っていることも珍しくなく、年月が経っても消えない犯人への怒りと身内を失った強い悲しみが時間の無力さを物語り、何とも言えない気持ちになる。一方で、当時未成年だった加害者側を弁護する側は、彼ら/彼女らは長い時を経て更生し、犯行は未熟さと複雑な家庭環境からだと主張する。人間は更生できるのか? というのがひとつのテーマであるのは間違いない。

* * *

昔、知人に、「知り合いが拘置所に入ったから漫画や日用品などを差し入れしている」という人がいた。その人は、拘置所に入っている人物に過去とても良くしてもらったことがあり、周りの批判を覚悟でそういったことをしている、と言っていた。その人は犯罪を犯したかもしれないけれど、私には優しかったから、と。
その話を聞いた時、私は喉に何かがつっかえたような気分になった。正直に言うならば、私なら知人と同じことはしない、と思う。なぜなら、私はこう思っているのだ。本当に優しい人というのは拘置所に入るような犯罪は犯さない。その人物が知人に対して優しかったのは自分にとって都合が良かったか、たまたまである、と。これは冷たい考えだろうか? そう自分に問うたと同時に、基本的に自分と言う人間は更生というものを信じていないのだということに気づかされたできごとだった。

それはひとつには、自分が10代にいじめの被害者という立場を経験しているからかもしれない。いじめの加害者は私を数ヶ月間いじめて不登校にした後、次にターゲットを変え、別のクラスメイトをいじめ出した。風の噂でその加害者にももう子どもがいるという。その事実を聞いた時、私は何とも言えない気持ちになった。

更生とはなんなのだろうか。また、家庭環境が複雑ではなくとも性格が歪んでいる人間もいる。人間の性質とは本当に奇怪だ。

話を冒頭のドキュメンタリーに戻すと、この番組にはたぶん、答えはない。司法が下した決断という意味での「事実」というものはあったとしても、元少年/少女が更生しているかというのは誰にもわからない。永遠にわからない。だから見ている間こちらの心は揺れに揺れる。海岸の波が行ったり来たりするように、「もう反省しているからいいんじゃないか?」「でもこれほどの重罪を犯した人間だぞ?」。前述したように基本的に更生というものを信じていない私がそう思うのだから、言い方はあまりよくないのだが「上手い」作りをしているのだと思う。そしてそれこそが製作者側の狙いなのかもしれない。視聴者が「揺れる」こと。答えを出さないこと。私にはそれが静かな衝撃となって心に響いた。

このドキュメンタリーを見ていて思い出した曲がある。Mr.Childrenの「タガタメ」だ。歌詞の中に「被害者」と「加害者」というワードが出てくる。「被害者」と「加害者」というのは戦争から殺人そしていじめに至るまで規模は違えど多くの事象に当てはまるものである。私は曲の中のように「愛」にすべてのものごとを帰結させるのはあんまり好きじゃないのだけど、残念ながら今のところ有効な解決策は「愛」という目に見えないとても曖昧なものであることに震える。子どもが誰かに愛されていると思う安心感はやっぱり絶大な自尊心を生むと思うからだ。もしこのドキュメンタリーの中の少年/少女たちの家庭が平和なものであったのなら、どうだったのか。たらればを語ってもしょうがないけれど、そう思わずにはいられないのだった。

簡単に人におすすめするには少し重い内容のものだが、見て良かった作品。

シフクノオト

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